人間尊重から、自灯明・法灯明へ
今年の真宗カウンセリング研究会の月例会は、ロージァズの「人間関係に関するカウンセリングによる一考察」という論文を読んでいる。これは、ロージァズ全集6巻の「人間関係論」の「いかにして援助的関係をつくるか」に収められているものだ。今回は、その最後のところ、セラピィの結果と、この仮説が人間関係について意味することを読んだ。
その関係のなかで、 自己の感情に純粋で、透明であればあるほど、また、相手を価値ある独立した人間として受容し、そして深い共感的理解があればあるほど、そのような関係が、ある程度継続するなかで、どのような結果が生れるかについて述べられていた。
つまり、より統合され、健康で、機能の働く人間として行動するようになる。自己の経験に対して、いっそう開かれて、それを否定したり、抑圧したりせず、他人に対する自分の態度をそののま受容し、他人に対しても自分に対する同様の仕方で観ることができるようになる。ますます、自己に自信をもち、現実に則した仕方で、自身を正確に捉えられるようになり、自己指示的になり、また防衛的でなくなり(つまり、他人に依存するのでも、また頑になるのでもなく、常に開かれているわけですね)、問題を創造的に解決できるような行動をとるようになる、というでのある。
しかもこの関係は、何かセラピィーの中での、クライエントとカウンセラーとの間だけのものではなく、先生と生徒、親と子、看護士と患者なども含めて、あらゆる人間関係のなかで、新しい人間関係の分野が、いま、開かれようとしているというのである。つまり、クライエント中心のアプローチが発展して、人間中心のアプローチへと続く道である。
今から50年前の論文である。いまや、ロージァズは古く、過去の人として捉えられている。そして、より効率的で、より即効性のある、もしくは、より適応的で機能する(これは何に対してか。組織や社会に、はたまた国家、体制に対してであって、その手段としてうまく心理学や心理療法が利用されていないだろうか)ものが、もてはやされる。
しかし、ここでのロージァズの仮説は、時代を越えて通じる、普遍的で、尊厳的な理念ではないか。もちろん、単なる理想ではなくて、その道は簡単でなくても、実効性も伴うものでもある。むしろ、効率や即効性を求める社会、個人よりも組織や社会を優勢しようとする空気の時代だからこそ、自分をも、そして他者をも、そのありようのそのまま、一個の価値ある人間として尊重しようという態度(言うは簡単だけれど、行うのは難しいなー)の拡がりは、新たな意味を持つように感じている。
まあまあ、小難しいことはここまでで、研究会のあとで、MAUN.さんと、プチ忘年会。近所の洒落た居酒屋で、一杯飲みました。人間関係と言っても、自分自身のことを大事に出来ずに、または自分を受容することが出来ずに、他人に関わることなんてできないし、他人のことをとやかく言える資格なんてないわけですよね。ましてや、組織をやです。組織のため、人のためと、他人の声に従って(もちろん尊重することが前提ですが)、自分を誤魔化して生きたり、伝えたい法を歪めるのなら、それは本末転倒。で、「自灯明・法灯明」の話になりましたが、法に照らされている、法に信じられている、まったく信じられないような私がです。そのまま肯定されている。そこを聞かせてもらえると、ほんとうに有り難い。
で、ぼく自身も、いろいろな気持ちや感情-ネガティブだったり、恐ろしかったり、悩んでいる部分も含めて-それを抱えながらでも、前に進んでいく実感があるんですね。常に肯定的で、積極的な、ポジィティブな感情が100%でなくても、ぜんぜん構わないわけですからね。とにかく、楽しかったですね。
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