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知恩、感恩、報恩~聞法の要~

 華光誌の「年賀交換」が、やっとこさ出来上がった。いざ、最終の印刷段階で、念の為、ハガキと突き合わせて校正すると、訂正箇所が次々と見つかるという、毎年のパターンで、結局、丸1日かかってしまった。それでも、2、3日早い仕事で、若干、余裕があった。明日来るだろう、本文の二校と表紙の校正をすれば、後は印刷と製本となって、華光誌の本体の仕事は終わる。

 残りは、華光誌に同封する「年間行事表」。これは昨年分を元に、上書きをすればいいので、丸1日あれば完成する。後は、華光誌の発送作業だが、発送の方は、会員管理がぼくの手を離れたので、事務方におまかせできる。発送は、12月の最終週になるだろう。うまくいくと、22日に発送ができるかもしれない。

 誌上法話は、「知恩、感恩、報恩」と題して、聞法旅行の万行寺での法話をもとにした。このところ、この「知る、感じる、報いる(行動・姿)」の、三つの有り様をよく味わっている。

 浄土真宗は、報恩講や恩徳讃のように、仏様に対する「ご恩」を問題にしている。それで、有り難い気持ち(感恩)になって、ご恩報謝の念仏(行動)ができないかと、いつも結果だけを問題にしている。どうしたら如来様のご恩徳が実感できるか。なぜ有り難いお念仏が出ないのかに腐心するのが、「聞法」になっている。ところが、肝心要の、どれほどの尊いご恩徳があるのかを聞いてない。いかに仏様のご恩が高く、深いかという中身を知らなければ、それを実感したり、それに報いる行動(念仏)などできるわけがない。では、知るにはどうすればいいのか。そこを喜んでいる先達、先生に教えてもらえばいい。教えられたままを、お聞かせに預かるだけ。それで、このわが身めがけて、深いご恩徳があり、いかに大きなお手回しがあったかが、はじめて分かる。

 ところがお互いは、目先の、自分の都合でしか考えられない、無明そのものでありながら、自分の智慧で知れると錯覚している。それほど無明の闇は深い。だからこそ、その迷いの姿を教えてもらいなさい。如来様のご恩の高いことを聞かせてもらいなさい、と聞かせてもらう。すると、こんな浅ましい私に、どれほどの深いご恩徳があったことか。なんと大きな大きな如来様のお計らいがあったか。まったく聞いてなかった、知りませんでしたーと、下がらん頭も下がり、この口から「南無阿弥陀仏」を称えずにおれんようになる。ちゃーんと、無理のない順番がある。

 だから、結果だけ見て、「知恩」を飛ばして、一足飛びに「報恩」(行動、姿)を求めて、こんなに一生懸命に求道してるのに、なぜ感じられんのか。報謝の有り難い気持ちになれんのかと、自分の心ばっかり見つめて嘆くのは、聞法でもなんでもない。それで、「自分の心ばかり問題にしないで、如来様の深いご苦労を聞きなさい。如来様はなんと仰っておられますか」などと、座談でアドバイスをいただく。ほんとうに、当たり前と決めつけて、まったく聞いていない。実は、この「知恩」だけで十分。ここが浄土真宗の有り難いところ。ただ、知るといっても、単なる知識が増えることじゃない。その深い深いおいわれ、ご恩徳が、自分のこととして聞こえたら、後は自然についてくる。だから他力と言うんじゃなかいと味わっているわけです。

 要するに、聞いてないから分からないという、すごく真っ当な答えに行き着く。もちろん、聞いているふりでも、ダメですよー。ご用心、ご用心。 

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