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2006年12月の28件の記事

大晦日。

 昨日、大学、大学院時代の恩師、S先生から、華光誌の一助とのお志しと、激励の言葉をいただいた。短いものだが、その温かい文面がうれしかった。さっそくお礼のお電話をすると、故西光義敞先生の話題に出た。「ほんとうに心を通わして語れる友がいなくなって寂しいことです」との言葉が印象的だった。

 もう一人、闘病生活を続けておられる同人からも、「ご心配をおかけしています」という、メールをいただいた。たいへんな状態なのに、逆に、ぼくのことを気づかっていただく。体を通して、法蔵菩薩さまのご苦労を味わっておられた。いましがたお返事。

 『「命のあらん限り、唯、南無阿弥陀仏」
 年賀状の法座案内に、そんなことを綴っています。(それぞれ違いますが)

 世間虚仮、結局「念仏まこと」しかないわけですから。そのことをお知らせいただいた身は、ほんとうに幸せですね。

迷いのいのちが死んで、悟りのいのちに生きる。ほんとうにご苦労をおかけしまし
たとしかいいようがありません。Mさんは、ぼくより一足早く、それを身をもって味わっておられるのですね。南無阿弥陀仏。』

 これが、今年最後のメールになりそう。

 今日は、大掃除。書斎は当然、台所や便所や風呂と、大ハッスル大会でした。蓮華さん、報恩講の1階の掃除、多少は楽だと思いますよ。

 2006年も、いろいろとご声援ありがとうございました。

 明日、1月1日、1時30分から5時です。修正会の法座です。どうぞお参りください。

南無阿弥陀仏

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。「TOUCH THE SOUND」~そこにある音~と、年の瀬の風物詩

 年の瀬ですね。

 毎年の恒例ですが、母のお供で、年始の買い物に出かけました。主におせち関係です。四条河原町の高島屋の地下がいつもの場所、高校生のころは荷物持ちで、今は、車の運転手と荷物運び役。買い物の間、しばらく時間があるので、電気屋街に回って、とうとうデジカメ購入しました。ぼくは、ケイタイ、デジカメ、そしてオーディオ・デジタルプレーヤーを持っていなくて、固定電話、35ミリフィルムの一眼レフ、そしてCDかMD(ときには、LP)の生活でしたが、この一角が崩れました。しかも、かなりポイントが溜まっていたので、一円もお金を払わずに購入してきました。かなり得した気分。なかなか面白い。

 すこし時間あったので、パーク・カフェまで歩きました。錦もにぎやかだったし、三条の三嶋亭(高級な和牛肉ですね)も長蛇の列。景気は少し回復ぎみなんでしょうか? バーク・カフェは、ワンプレートですが、なかなか料理とコーヒーが美味しい。今日は、水菜と貝柱のオイルパスタに、マグロのフライ、ゴルゴゾーラがかかったサラダ。となりの女性二人は、「エビちゃんって、しゃべらんほうがいいね」などと、ほんとうにたわいものない会話。左隣は、まだ付き合いて間がない女性が年上のカップルと見たが、。そんな雰囲気の中で、玉城康四郎博士の『仏教の根底のあるもの』を再読する、ぼくってどうなのーという感じで。まあ、これが現実。

 高島屋の地下は、例によってごった返しておりましたが、今年は少し違う楽しみがありました。それは、5月ごろ、ここで撮影された「音」の映画を見たから。「TOUCH THE SOUND」~そこにある音~。この映画、真宗者はこころ撃たれますよ。打楽器奏者のエベリン・グレニーが主演。彼女は、子供のころに聴力を失ったが、グラミー賞に輝く音楽家として活躍されています。耳が聞こえないので、記者がよく質問するそうです。「どうやって聞いているのですか?」 すると彼女が答える。「では、あなたは、どこで聞いているの?」-おおー。ほんとうそうだ。どこでぼくは聞いてるんだ。「耳」か「頭」か「習慣」か。そして彼女は答える。「私は、自分をオープンにして、体で聴いてる」と。「聞くことは何かに触れること」「聞くことに始まって聞くことに終わるの」、いやいや、その言葉のひとつひとつに参りました。その彼女が、音に出会う旅の途中で日本にも立ち寄り、新幹線の中、交差点、繁華街、そして京都の石庭、さらにこの高島屋の地下売り場でも、体を耳にして、自分をオープンにして(はからわないでね)音に触れているんです。これは騒音、雑音なんていう区別がないわけですねー。残念ながら、ぼくはほんの一瞬、そんなことが蘇ってきたけれど、やはり、活気があるけれど騒がしい。「人だらけで、空気悪いーな」と思う凡人ですけれどね。

 今夜も、たったいまレイトショーで、今年最後の1本を見てきました。これは壮絶。なんてぼくたちは甘いんだろうかーと、自分の小ささを教えられたね。チベット(中国)映画、「ココシリ」。京都初で、今夜1回限り。そのあと、3本立てのオールナイト上映でしたが、こちらはパスしちゃいました。

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今日は寒いですね。

 雪チラチラしています。昨日から、急に寒くなりました。

 年末最後のカウンセリングというか、相談が1件。法座での座談会も意味ありますが、じっくり一対一で、こころの襞(ヒダ)や、微妙な感じを聴きあうのも大切ですね。どうしても、いもこぎの勢いはありますが、こぼれおちる部分もありますから。来年は、毎週、水曜日は、個人の相談やご示談を優先する日にしたいと考えています。

 2、3日かけて、毎月の法座案内や文化教室の案内状に、一筆書き。皆さんのお顔を思い出しながら、ちょっと一言書くだけなんですが、350枚以上あると思いの外、苦戦しました。だんだん同じ文面の部分もありますが、どうにか終了しました。

 昨日は、長女とその友達を連れて映画館へ。『プリキュア・スプラッシュー☆スター』を見せました。さすがにね、面白かったとは言えませんが、子供たちは大喜び。パフェをご馳走すると、ほんとうに幸せそうでした。

 ちょっと一昨日の夜から気分すぐれなくて、昨夜は微熱がありましたが、ブログも休んで早めに寝て、朝もゆっくり休んだので、今日は、もう大丈夫。中央局に年賀状を出していく足で、今夜も滋賀会館まで映画観てきます。年末の会員招待。少女と老人が幻の蝶を探し求めるフランス映画『パピヨンの贈りもの』。美しい自然の中での、繊細な心の交流を描いた佳作です。体調からちょっと迷いましたが、無料と聞いて、あさましも出かけます。

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『ママが泣いた日』と『キング 罪の王』

『ママが泣いた日』(The upside of anger)

 こちらは、一転、ヒューマニテックな1本。仕事も順調、生活も安定し、4姉妹が独立する幸せな家庭が、一転、父親の失踪で急変。母親(ジョアン・アレン)は、失踪と時を同じくして帰国したスェーデン美人との駆け落ち)と信じきり、それ以降、温厚なよき母・妻は、アル中ぎみにり、厭味をいい、子供に八つ当たりし、どうにもこうにも嫌な人間になっていく。たまたま隣人の元大リーガー(ケビン・コスナー)とも、懇ろになっていく。それでも、年頃の子供たちは、さまざまな問題を抱えて、母をイライラさせ、攻撃的になり、自分も、回りも傷つけていく。ああ、やっぱり感情って厄介なのね。常に、冷静沈着で、感情的でないことが「大人」の条件である。しかしである。「怒る」の感情って、悪いことばかりではない。このネガティブな感情もまた、(本来の)自分を守る大切な役目をしているのじゃかいのかなー。ただ、それに巻き込まれ、自己自身が罪悪感で苦しみ、ますます回りを傷つける悪循環を、ぼくたちは嫌っているのだ。それならば、うまい感情の表現があったっていいのだろうなーなどと、ちょっと考えましたね。これも、ラストで、父親のほんとうの失踪の原因が、偶然にハッキリしてきます。冒頭のシーンと、うまくつながりますが、ここは上手かった。でも、全体になぜかもう一押しほしかったなー。ちょっと不満が残りました。

『キング 罪の王』

Tumi  おバカ映画、背徳的な官能もの、そしてヒューマニテックなものと、いろいろと楽しんだけれど、いち押しは、この『キング 罪の王』。やられましたね。こんな映画があるから、評判になってなくても、侮れない。

 海軍を除隊し、自由な身になった青年(ガエル・ガルシア・ベルナル)は、亡き母親に教えられた、まだ見ぬ父親に出会いにいく。父親(ウィリアム・ハート)は、今や有名な牧師となり、家族4名が、理想的な幸せ家庭を築き、地位も名誉も得て幸せそのもの。そこに、現れた大昔の若き時の過ちを、受け入れる余地はなく、冷たくあしらう。青年は、美し成長した異母妹に近づく。兄とは知らず、深い関係をもつ彼女。そのことを知った兄は、青年に迫っていくが、その日以来、家族の前から姿を消す。父親は、失踪した息子を求めて、過去の罪を信者の前で懺悔し、告白し、青年をわが子を受容して、互いに和解したかのように見えるのですが。

 とにかく、ガエル・ガルシア・ベルナルのイノセントでありながら、肌寒いまでの凶悪ぶりには脱帽。突然、過去の傷を暴かれ、苦悩するウィリアム・ハートと、夫の過去を受けいれられずにいながらも、徐々に、青年に心を開くローラ・ハーリングの脇もしっかりしていて、サスペンス調で見事えありました。

 物語は、旧約聖書の「カインとアベル」(アダムとイブの息子たちよる、人類最初の殺人事件)や、ギリシャ神話で、「エディプス・コンプレックス」の基になる「オイディプス」などを意識しているのでしょう。寓話調の部分に、ところどころに象徴的な場面が挿入されています。狩りのあと、鹿の肉をさばき、血みどろの床を洗い流す場面や、夜中に赤い鼻のピエロと出会う場面などは、まさに、つぎの展開への暗示や象徴なんでしょう。父親のトランプの王様のようなヒゲも象徴的でした。

 そして、ラストの設定、セリフ。これが見事。参りました。お勧め!

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『ジョルジョ・バタイユ ママン』『ドリームシップ エピソード1/2』 +

 華光誌発送終わりました。この10日ほどは、映画よく見てますね。

 まず、滋賀県まで足延ばして、大津の滋賀会館で、『敬愛なるベートーヴェン』と、『トンマッコルへようこそ』の2本観たのを皮切りに、『麦の穂をゆらす風』と『硫黄島からの手紙』(また触れたいですね。)、あとは、京都みなみ会館のレイトショーを利用している。夜10時前から始まり、0時前には帰宅できるので、都合がよろしい。ご近所の強み。京都支部の家庭法座終わった夜も、1本観に行けるのですから。今月は、レイトだけで6本観ます。

 ジョルジョ・バタイユ ママン』

Maman  20世紀のフランスを代表する思想家のひとり、ジョルジュ・バタイユ原作『わが母』の映像化。性的倒錯と、暴力や危うさなど、かなりポルノティックの作品。父の亡きあと、自己に忠実に、放逸でふしだらに生きる、敬愛する母親の性的世界に誘われた、純情だったひとり息子。そのラストのマスタベーションシーンは、衝動的で、ここはポイント高かった。それに母親の愛人役の女性陣が魅力的で、これもうれしいぞー。生きることと、身体、エロス、そして死は不可分なでんすね。ある種、宗教にもっとも近いんじゃないかなー。

 何よりも母親役がイザベル・ユベール。下品になりがちな役どころを、しっかりしめています。ただし、この人に、ハネケの『ピアニスト』という、名作にして衝撃作があるので、ぼくには、新鮮さに欠けましたね。『ピアニスト』も、この秋に映画館でみたけれど、ちょっと誰でも彼でもお勧めできる作品ではないけれど、ぼくにとってはたいへんな名作と思いました。安易な感情移入を拒み、なんともいえぬ不安感、倒錯感のすさまじいタッチでした。いや、もう一度、ちょっと気分悪くなりそうだけれど観たいなー

『ドリームシップ エピソード1/2』

Ship  ドイツのオカマSF、おバカムービー。300年先の未来から、現在のネバタ州を目指して、地球の未来をかけてタイムマシーンでやったきた、ドリームシップ号のオカマ船長・コーク、オカマのバルカン星人スパック、そしてタクシー・ドライバーに、女王の4人組が巻き起こす、チン道中。かなりヘン。スター・トレックや、スター・ウォーズ、バック・トウ、・ザー・フュチャーはじめ、「これ見たことあるよなー」の有名な場面のパロディーに次ぐ、パロディー。ところが、ハリウッドじゃない、ドイツということろがミソ。ことごとく滑る。でもって、ガラガラの映画館に、妙な空気が漂う。だって笑うにに笑えず、大まじめにやっている。このユルさが、なんともヘンでいい味。もし、あなたが真面目に悩んだり、グーット人生煮詰まったときには、いいですよ。そんなことで悩んでいる自分が、バカバカしくなるほど、くだらないバカげた映画。もっともあまりの面白くなさに、腹が立つことも予想されますが…。

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ヒーリング・ブレス・WS~ロングクリアー

 ぼくの今年の関心事に、「呼吸法」があると、以前、書いたことがある。http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/cat6169686/index.html

今年、1月に体験コースを経験したあと、4月末に1週間連続で、「ヒーリング・ブレス・WS」に参加した。サリーが似合う、南インド出身の女性が、巧みな日本語の講義し、ヨーガ、そして呼吸法の体験。その後、毎朝20分弱、セルフでできる、「スダルシャン クリヤ呼吸法」、ショートクリヤーを続けている。月1回は、ロングクリアーの体験をする。なかなか時間が会わなくて、何カ月ぶりかに出席した。

 すこしヨーガでからだをほぐしてから、呼吸法が始まる。まずは、3段階の、ウジャーイー(少し音が出る)呼吸法、続いて、ブハストリカ(ふいご式の呼吸法)を3回。そのあと、オウムを唱えて、あとはグルに合せて、ゆっくり、普通、そして早い、鼻からすい鼻から抜ける呼吸法を、かなり長い時間行う。これがなかなか、貴重な体験である。

 過呼吸と、変化あるが、一定のリズム、そして感情を畏れず、体験に身を任せる(または、何が起こっても、温かく見守る雰囲気も)がポイントだと、ぼくは見ている。

 以前は、一種の変性意識状態に近くなったこともある。今夜は、全身が痺れ、その感覚がなくなり、最初は大汗をかいたあと、異様に寒くなった(汗のせいではない)。ただし、ネガティブなものや著しい感情の変化はなく、静かで、温かくて、落ちいた感じがした。しばらくからだが膠着して動けなっかったが、ゆっくり横になって、そのものに全身をまかせて味わう。今夜は、静かにお念仏をすこしさせてもらった。からだの大掃除である。

 個人的な関心、からだとこころの大掃除という以外にも、ご法を伝える上でも、この種の体験をしておくことは、大切なことだと思っている。人は、超常的な体験を握りたがるものだ。念仏が吹き出る、手が離れなくなる、光りが見える…。でも、そのことが=信仰体験(獲信)ではないのだ。ただ、ちょっと体験しづらいものをからだを使って知らせてもらった。そのおくにある、阿弥陀様のお心を聞かせていただくである。そのところで、何か大きなものを捨てさせてもらったかどうか。不思議なことだけを握るのは、あまりにも危険であるし、またやり方ひとつで、そのような体験することも可能だということを、十分認識しておく必要がある。

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大掃除、クリスマスイブ? 忘年会?

 今日は、朝から仏青有志の皆さん7名のご助力で、華光会館の大掃除でした。大掃除といっても、昔の華光会館では、8月のお盆ごろに、家具を全部動かし、畳を全部あげて干す(当然、道場の畳みも全部です)という、かなりハードな恒例行事がありました。古い柔道用の畳だったので、とても重たかったー。そして、少し昼寝をしたり、夕方にはみんなで銭湯で一汗流す。そして、一杯呑みながら、歓談する。懐かしい、楽しい思い出です。中学生の時には、タンスの上から物が落ちてきて、頭を縫うケガをしたこともありましたがね。

 で、そんな大層なことはいつのまにかなくなりました。今回も、大掃除といっても、外回りの窓や、日頃は手の届かないところを掃除するものの、まったく以前のようなハードなものではないですが、皆さん、よく動いてくださいました。お疲れさまでした。

 ぼくも、駐車場や、華光会館の外回りの清掃をしたのですが、枯れ葉は、取っても、取っても、また落ちてくるし、濡れたらまつわりつくし、乾くとモロモロするし、たちが悪くてきりがない。といって、少々汚くても、目をつぶっていると、いつのまに慣れてきて、なんともなくなるしね。まったく、煩悩と同じなんだよなーと思いながら掃除しておりました。玄関に見知らぬ男性の声。刑事さん。2ケ月前に、近くで窃盗事件がありまして、会館の前にその際の、レインコートを捨て去ったらしいという点の裏付け捜査でした。それが、ちょうど華光会館の修理の最終日のころで、てっきり工事関係のゴミということで、最終日に、粗大ゴミとして業者に廃棄してもらったことがあって、記憶がハッキリしていました。まあ、少しは役にたったのでしょうかね。家内は、聞き込みにきた刑事さんが、若くて、男前だったので、協力したと言っていましたが。ヤレヤレ。

 人手がありましたので、ぼくは、文化教室の年賀状の作製や、華光誌に同封する聞法旅行の写真などの仕分けなどの事務仕事をしました。

 夜は、家内の手料理で会食。これが、なかなかのご馳走でしてね。なぜかチキンなんです。グラタンもあり、北海道産のタコの刺身がありの、サラダがありと、次々並んで、最後は、手作りの豪華なフルーツポンチと、ケーキまで。これ何人分なんやというほどの量でした。赤、白のスパークリングワインをあけまして、乾杯! これどう考えても、12月24日を意識してるんじゃないかね? もっとも、「メリー○○」なんて、バカなことはありませんでしたが…。それでも、子供は大喜びでしてね。「うちは、お寺なんで、サンタさんは来ないんだね」と、毎年、寂しそうでしたがね。まあ、今日は、お疲れさまでしたという慰労を込めた、心尽くしで、ちょうど都合がよかったです。ご馳走さまでした。

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これから京都支部法座

 華光誌、完成しました。発送は、26日の火曜日になりますが、楽しみにしておいてください。新年号なので、表紙の色が変わります。このデザインも、今年限り。できれば、来年からは様式も替えて、年に6回を目標にしていますが、あまり大きなことはいえないヤー。でも、ほんとうは、隔月に出したい。毎月は非現実的ですが、隔月ならなんとかなるんじゃないかと。

 これから京都支部法座です。Mさんのお宅にお邪魔します。法座のあと、少し皆さんで会食もするそうで、楽しみにしています。高山法座でもテーマにした、「如来所以興出世、唯説弥陀本願海、五濁悪世群生海、応信如来如実言」のところを、味わいます。このところ、「如来」という言葉に、ジーンときています。「如」より来生された、どこに、誰のもとに、なんのために、どのように、その活動相、活動される姿が、如来様なんですね。この如来様ってなーに?ということを味わうだけでも、深い深いご文です。唯、弥陀の本願海を「説く」そのひとつのために。それは、誰のため? 誰のためのお念仏なのか。「五濁悪世群生海」の、この私のために! そのために、真如からお出ましくださり、真如へと去っていかれる、私を連れて…。その如実の言葉を信じよ、つまり聞けよと。ということはですよ、(西光先生の言葉をかりれば)、「○○(ご自分の名前をいれてね)がこの世にうまれてきた所以は、ただ、弥陀の本願海を聴くためである」と、いうことになるわけです。

 ほんとうは、おいそれと聞き流せる話じゃないですよね。

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人間尊重から、自灯明・法灯明へ

 今年の真宗カウンセリング研究会の月例会は、ロージァズの「人間関係に関するカウンセリングによる一考察」という論文を読んでいる。これは、ロージァズ全集6巻の「人間関係論」の「いかにして援助的関係をつくるか」に収められているものだ。今回は、その最後のところ、セラピィの結果と、この仮説が人間関係について意味することを読んだ。

 その関係のなかで、 自己の感情に純粋で、透明であればあるほど、また、相手を価値ある独立した人間として受容し、そして深い共感的理解があればあるほど、そのような関係が、ある程度継続するなかで、どのような結果が生れるかについて述べられていた。

 つまり、より統合され、健康で、機能の働く人間として行動するようになる。自己の経験に対して、いっそう開かれて、それを否定したり、抑圧したりせず、他人に対する自分の態度をそののま受容し、他人に対しても自分に対する同様の仕方で観ることができるようになる。ますます、自己に自信をもち、現実に則した仕方で、自身を正確に捉えられるようになり、自己指示的になり、また防衛的でなくなり(つまり、他人に依存するのでも、また頑になるのでもなく、常に開かれているわけですね)、問題を創造的に解決できるような行動をとるようになる、というでのある。

 しかもこの関係は、何かセラピィーの中での、クライエントとカウンセラーとの間だけのものではなく、先生と生徒、親と子、看護士と患者なども含めて、あらゆる人間関係のなかで、新しい人間関係の分野が、いま、開かれようとしているというのである。つまり、クライエント中心のアプローチが発展して、人間中心のアプローチへと続く道である。

 今から50年前の論文である。いまや、ロージァズは古く、過去の人として捉えられている。そして、より効率的で、より即効性のある、もしくは、より適応的で機能する(これは何に対してか。組織や社会に、はたまた国家、体制に対してであって、その手段としてうまく心理学や心理療法が利用されていないだろうか)ものが、もてはやされる。

 しかし、ここでのロージァズの仮説は、時代を越えて通じる、普遍的で、尊厳的な理念ではないか。もちろん、単なる理想ではなくて、その道は簡単でなくても、実効性も伴うものでもある。むしろ、効率や即効性を求める社会、個人よりも組織や社会を優勢しようとする空気の時代だからこそ、自分をも、そして他者をも、そのありようのそのまま、一個の価値ある人間として尊重しようという態度(言うは簡単だけれど、行うのは難しいなー)の拡がりは、新たな意味を持つように感じている。

 まあまあ、小難しいことはここまでで、研究会のあとで、MAUN.さんと、プチ忘年会。近所の洒落た居酒屋で、一杯飲みました。人間関係と言っても、自分自身のことを大事に出来ずに、または自分を受容することが出来ずに、他人に関わることなんてできないし、他人のことをとやかく言える資格なんてないわけですよね。ましてや、組織をやです。組織のため、人のためと、他人の声に従って(もちろん尊重することが前提ですが)、自分を誤魔化して生きたり、伝えたい法を歪めるのなら、それは本末転倒。で、「自灯明・法灯明」の話になりましたが、法に照らされている、法に信じられている、まったく信じられないような私がです。そのまま肯定されている。そこを聞かせてもらえると、ほんとうに有り難い。

 で、ぼく自身も、いろいろな気持ちや感情-ネガティブだったり、恐ろしかったり、悩んでいる部分も含めて-それを抱えながらでも、前に進んでいく実感があるんですね。常に肯定的で、積極的な、ポジィティブな感情が100%でなくても、ぜんぜん構わないわけですからね。とにかく、楽しかったですね。

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華光誌輪読法座

 今夜は、これから、真宗カウンセリング研究会の月例会に参加して、そのあと、2人プチ忘年会で、飲んで帰ろうと思います。楽しみだなー。

 さてさて、皆さんからのコメントに触発されて一言。

 Tねこさん、大阪凡夫さん>>

 華光誌輪読会法座へのコメントありがとう。力づけられますね。触発されて、もう少し発展させたいと思いました。

 大阪凡夫さんは、一足早く自主的な輪読会を始められたと聞いてます。また、Tねこさんは、「聖典講座」のテープを聞く会など開いておられる。お二人とも、支部法座とは別に、自主的なサブ法座を開かれる行動力をもっておられる。ほんとう素晴らしいです。

 で、いつもの支部法座なんかでも、講師抜きの法座で、華光誌の輪読をされているようですが、今回は、定期的に、講師を招いてやるところに意味をみています。

 さらに、お二人のコメントを読んで、この集いを各地でも広げてもらって、それを掲示板などを使って分かち合うのもいいなーと思いました。華光会のHPを使って、既存の誌上法話の輪読会の企画はありますが、最新の華光誌なら、別の面白さが味わえるでしょう。このあたりは別途考えていきましょう。とりあえずは、華光会館での定期的な集いを持ちましょう。まずは、1月か、2月に開きましょう。大阪凡夫さんには、ぜひ、お世話役の一役をお願いしたいものですね。

 蓮華さん>>東海法座ではお世話になりました。

 ほんとですね。華光のある先生のご法話じゃないですが、石や瓦に向かって「仏法聞けよ、聞けよ」と仰っているですよね。よく考えると不可能なことです。よく考えると、おかしい奴ですよ。仏様って。でもね、皆様のご恩徳のおかげで、石、瓦のような奴でも、「有情」ですから、仏様のその願力に撃たれて、おこころにふれることができるんてす。まあ、自分のことを、まともな一人前と自惚れている間は、頭下がりませんね。

 泥凡夫さん>> 寂しい思いをさせましたか。また、ぜひご一緒しましょう。

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今も、大切に、信頼しているんだなー

  寒くなりましたね。今日は日中の日差しが戻って、いい気分でした。

 ブログへの反応で、ぼくのこころの中で一波瀾ありまして、ここ2日間、お休みしました。月曜日の夜は、眠れんぐらい悶々というか、カッカとした夜でしたが、でも、そのおかげで、吹っ切れましてね。いい感じしてます。

 なんなとく事実が認められないとうか、どこか畏れていたというか、腫れ物にさわるように気をつかい過ぎてたんですわー。でも、相手じゃないですよね。相手の態度や気持ちは別にして、要は、自分のところ。自分が、どう思っているのかだなーと。改めて思わせてもらいましたね。「ハッ」と開けました。そうすると、「グウーン」と、進んでいく感じがするんですね。ここは頭や理屈で、自分に納得させてる、言い聞かせているのと違う感じですわ。フォーカシングでいうところの、シフトした感じですね。

 その人のことを、過去に大恩があったかどうかじゃなくて、今、このような状況でも、とても大切に思っているし、信頼しているんですね。ああ、ぼくって、なーんて馬鹿なんだろうなーと思いますが、要は、自分のところだとね。

 ねえ。相当悩み、苦しみ、頑張ってきたんですから、もう十分じゃないんですかね。

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東海支部法座~指月の月~

 東海支部の法座で「連続無窮のお働き」を読みました。広島、東京、九州、京都・大阪、高山の順番で読んできましたので、これがラストの締めになります。

 同じ内容でも、随分、雰囲気が違うという印象を強く持ちました。かなり参加者に左右されますが、東海支部には、支部の独自の空気がありまして、ちょっとバラバラしています。それぞれの自分の独特の世界を、勝手に語り合うという雰囲気ですね。求道者は、自分の気持ちばかりを、社会に関心をもっておられる人は、「教育基本法」改正問題に強く言及されたりしてね。このあたりは、異なる雰囲気なので、妙な緊張感生れまして、これはこれで変化球で面白かったですがね。ぼくには、ぼくとして、いいたい事はありましたし、気分的には同じ気分を共有できるのですが、この問題は別の機会でというところてすね。

 ほんとうはじっくりとそれぞれの味わいを語り会いたかったですが、そんな雰囲気にはなりませんでして、発言者が偏ったのが、ちょっと反省です。

 今回の法座で、感じた事の一つは、「指月の指」(月をさす指)という言葉。どこに月があるのかわからないものに、「あそこにだよと」と、指を指してもらう。その指の先に、月があるのだけれど、愚者は月を見ずに指を見るという、ことわざですね。真理を知るには、先達の導き、特に浄土真宗では、言葉によってお導きをいただく。しかし、これが厄介なのですね。この言葉がないと、前には進めないに、その言葉に捕らわれて、道を迷っていくのも事実です。要は、月を見ないで、指ばかりを論じ合っている。指が、きれいに見えたとか、長いとか、太いとか、または指の先を観た人が、根元を見ている人を嘲笑したりする。まったくもって、月を見ないで、ますます指ばかりを眺めている。そんな話題が多かったんじゃないんですか。

 「指ばかり見ている」自分に気づけば、方向が変わるんですが、これが難しい。でも、先達、友同行がおるというのは、何者にも替え難い幸せだと思いましたよ。間違いを正してもらえるわけですから。それには、ちょっと頭を下げる、ちょっと心を開く勇気もいるかもしれませんがね。

 高山から、高山法座、成道会、そして東海支部と、3週続けて、Kさんお参りくださいましたので、急遽、人を募って、「浅野屋洋食店」で、会食してきました。●●●●●●●●

 で、結局、5名でしたが、美味しく、楽しかったです。増井先生の書、「無碍道」の扁額など見られます。華光の皆さんも、名古屋のお寄りの折には、贔屓にしてください。(ちょっとCMです)。

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ラテン(フォルクローレ)のライブ!

 10日ぶりに、自力整体へ。華光誌の作業で、パソコンと睨めっこだったので、からだ(右の外側の腰あたりと、左の肩甲骨のあたりが)が凝っていて、長時間、イスに座っていると、左の背中が少し痛くなってきます。やっぱり固くなってるんですね。今日は、4名だったので、ゆったりとほぐして、スッキリ。ツマリ、サビ落としになりました。

 明日の東海法座の準備が早く終わったので、夕食後、急遽、コーダルオン(Chordal on)へ、ライブに行きました。20時開始なのに、20時に家を出ても、まだ始まってませんでした。自転車で5分で行ける「みなみ会館」といい、10分ぼど行けば、こんなお店があるのも、かなりラッキーだわ。

 で、「天狗」という、日本人2名に、白人と、中国系の4名のグループでした。昨日まではまったく知りませんでして、たまたまお茶を飲みにいったら、「民族音楽のよう音ですよ」と誘ってもらった次第。ケーナ(竹のシンプルな笛)、ガットギター、そして、ボンゴや太鼓と、ラテンのパーカッションという、フォルクローレという、南米のペルーなどの音楽(「コンドルが飛んで行く」は、有名でしょう) の形態をとりながら、ジャズやロック、ブラジル音楽をミックスしたようなグループでした。音色は温かくて心地よいのに、ジャズのような熱いインプロビゼーション(アドリブ、即興演奏ですね)と、ノリノリのリズムで、なかなかステキなグループでしたよ。例によって、ミージシャンが4名に対して客は7、8名。小さな空間での、あっという間の90分間でした。堪能してきました。でも、なんで「天狗」なのかね?

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讃嘆コミュニケーションの創造(序)

 最近、仏青の学生さんが、「思いっきり泣ける映画が見たい」と話していた。そういえば、映画にしても、書籍にしても、話題にしても、「感動的!」 とか、「泣ける!」というフレームが踊っている。主人公に同化し、感情移入して、一緒に泣きたいわけである。極端にいうと、そんな「泣ける映画」が、いい映画だということになりかねない。それでは、ちょっと安易すぎるんじゃないかと、危惧している。

 これは仏法のご聴聞にも当てはまるなーと思っている。

 法話でも、法座でも、感傷的な、感情的な、感動的な話や場面を、「有り難い」とする節がある。確かに「情」は大事だ。梵語のsattva(サットウヴァ)は、「生きとし生きるもの」の意味で、「衆生」とも訳し、「有情」とも訳される。その意味では、「情」(こころ)が有るから、生きていると言える。でも、「情」だけだと、一種の陶酔状態、話や雰囲気に酔っているだけということも多い。ご示談などで、泣いてばかりいる人には、なかなか話が伝わらず難儀するケースが多い。自分の気持ちに酔っているだけであって、話を聞いていないのだ。「泣いたのが信心じゃない」という、「華光の求道カルタ」はしごく名言。

  号泣して、念仏することが、獲信ではない。当たり前のことだ。

  で、一方で、聖教をかっちり受け取って聞く「知的」理解という聴き方もある。どうも、こちらは華光の方は、学解往生的だと、嫌うフシがあるが、一般では、真面目な学徒も多い。もっとも、今は、社会に目を向ける人(信心の社会性って、へんな言葉だな)多いが、普通は、お聖教の中に真実を求めていく。だいたい、小学校以来、この学習法を積み上げてきた。知識を細かい要素に分解して、少しずつ段階を踏まえて与えられて、その部分を積み上げることで、学習者が全体を手に入れる段階的学習法に馴染んでいる。それで、浄土真宗も、ダンダンと細かい理解をつなげれば、いつかは全体が獲られると錯覚しているのである。

残念ながら、その方向では、浄土真宗の核心を聞き開くことは絶対にない。

では、単なる「情」でも、単なる「知」でもなく、もしくはこの両者の隘路を破るものはなにか。それか、真宗の讃嘆コミュニケーションだと、細々と提唱している。

  これは、華光で語られきてた、三量にも通底するテーマなのだ。ハハハ、「実践的! 真宗法座論」の題名ぽくなってきたなー。でも、今夜はこのあたりで。

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華光誌終わったら、いい企画浮かびました。

 パソコンが変わって、少し勝手が違うところが出てきまして、今朝も「年間行事表」を1、2カ所手直ししましたが、やっとこさ、華光誌の作業終わりました。

 印刷所が来るまで時間があったので、1ケ月半ぶりにカットへ。ぼくの前の先客は、仏青会長のO君。お店(Enchante・アンシャンテ)が、彼の下宿と龍大を結ぶ七条大宮にあるので紹介したのだけれど、ボンボンの絵といい、華光同人の洒落た家具といい、このお店も、徐々に華光化されつつあるなー。コーヒーをご馳走になっている間、HPや華光誌の宣伝してきました。Rさん、今日もブログ見てくれてますか?

 帰ってきたら、予定よりかなり早く、印刷屋が来ていて、華光誌の渡し終わっていました。これで責了なので、ぼくの仕事は終わりです。例年よりも、2、3日早く、最高に早く印刷所に渡せたと思いますが、完成は25日ごろで、発送はやはり26日(火)になるようです。まあ、年内発行ができるので、今年の大きな仕事は終わった感があって、ホッとしましたね。

 今日は、華光誌の間に滞っていた、事務仕事を片づけています。テープのタイトルとか、HP用のはちすなどの原稿の整理など、こちらもだいたいメドが立ってきました。

 華光誌と言えば、最近、各地でぼくの法話「連続無窮のお働き」の輪読をしています。続けてやると飽きて来るかと思いきや、けっこうぼく自身もお味わいが深くなって、気づかせてもらうことが多いです。みんなの発言量も多くなるし、真剣に読むしね。それで、自分なりに次のような企画の法座を持ちたいなーーと思うようになりました。

 それは、華光誌輪読法座です。毎月でなくて、華光誌が発行された翌月初めごろに(1ケ月後ね)、巻頭言、誌上法話などを読んでいく。ただ読むだけでなくて、もしその筆者がいるのなら、その方を交えて補足や味わいも聞かせてもらうえばいいんじゃないかーと。これを日曜ではなくて、平日のお昼に開催してはどうか。以前から、平日法座を持ちたいと思っていたけれど、これなら参加者も受け身ではなくて、かなり参加型で関われますし、発言もしやすい。華光誌なので、単なる勉強会とも違うしね。2月、5月、8月、11月ごろになりますか…。詳しくは、また発表しますが、「年内行事表」に軽く告知しています。

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知恩、感恩、報恩~聞法の要~

 華光誌の「年賀交換」が、やっとこさ出来上がった。いざ、最終の印刷段階で、念の為、ハガキと突き合わせて校正すると、訂正箇所が次々と見つかるという、毎年のパターンで、結局、丸1日かかってしまった。それでも、2、3日早い仕事で、若干、余裕があった。明日来るだろう、本文の二校と表紙の校正をすれば、後は印刷と製本となって、華光誌の本体の仕事は終わる。

 残りは、華光誌に同封する「年間行事表」。これは昨年分を元に、上書きをすればいいので、丸1日あれば完成する。後は、華光誌の発送作業だが、発送の方は、会員管理がぼくの手を離れたので、事務方におまかせできる。発送は、12月の最終週になるだろう。うまくいくと、22日に発送ができるかもしれない。

 誌上法話は、「知恩、感恩、報恩」と題して、聞法旅行の万行寺での法話をもとにした。このところ、この「知る、感じる、報いる(行動・姿)」の、三つの有り様をよく味わっている。

 浄土真宗は、報恩講や恩徳讃のように、仏様に対する「ご恩」を問題にしている。それで、有り難い気持ち(感恩)になって、ご恩報謝の念仏(行動)ができないかと、いつも結果だけを問題にしている。どうしたら如来様のご恩徳が実感できるか。なぜ有り難いお念仏が出ないのかに腐心するのが、「聞法」になっている。ところが、肝心要の、どれほどの尊いご恩徳があるのかを聞いてない。いかに仏様のご恩が高く、深いかという中身を知らなければ、それを実感したり、それに報いる行動(念仏)などできるわけがない。では、知るにはどうすればいいのか。そこを喜んでいる先達、先生に教えてもらえばいい。教えられたままを、お聞かせに預かるだけ。それで、このわが身めがけて、深いご恩徳があり、いかに大きなお手回しがあったかが、はじめて分かる。

 ところがお互いは、目先の、自分の都合でしか考えられない、無明そのものでありながら、自分の智慧で知れると錯覚している。それほど無明の闇は深い。だからこそ、その迷いの姿を教えてもらいなさい。如来様のご恩の高いことを聞かせてもらいなさい、と聞かせてもらう。すると、こんな浅ましい私に、どれほどの深いご恩徳があったことか。なんと大きな大きな如来様のお計らいがあったか。まったく聞いてなかった、知りませんでしたーと、下がらん頭も下がり、この口から「南無阿弥陀仏」を称えずにおれんようになる。ちゃーんと、無理のない順番がある。

 だから、結果だけ見て、「知恩」を飛ばして、一足飛びに「報恩」(行動、姿)を求めて、こんなに一生懸命に求道してるのに、なぜ感じられんのか。報謝の有り難い気持ちになれんのかと、自分の心ばっかり見つめて嘆くのは、聞法でもなんでもない。それで、「自分の心ばかり問題にしないで、如来様の深いご苦労を聞きなさい。如来様はなんと仰っておられますか」などと、座談でアドバイスをいただく。ほんとうに、当たり前と決めつけて、まったく聞いていない。実は、この「知恩」だけで十分。ここが浄土真宗の有り難いところ。ただ、知るといっても、単なる知識が増えることじゃない。その深い深いおいわれ、ご恩徳が、自分のこととして聞こえたら、後は自然についてくる。だから他力と言うんじゃなかいと味わっているわけです。

 要するに、聞いてないから分からないという、すごく真っ当な答えに行き着く。もちろん、聞いているふりでも、ダメですよー。ご用心、ご用心。 

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『王の男』

 朝は、印刷所に初校を渡しをしたあと、午後から、京都シネマで一本みて、マノアマノ(細い路地にある雰囲気のいいお店)でお茶し、夕方から年賀交換の修正をするという、先週の『クリムト』と同じ、ルーティンで動きました。観た映画が韓国映画になったのと、お茶飲みながら読んだ本は違いましたが、やっぱり音楽の本を読んでいます

 Ounootoko_01 『王の男』、かなり早い時期に、韓国在住の方から、たいへんこちらで大流行で、日本での公開が決まったと情報があり、楽しみにしていたけれど、けっこうよかったです。かなりかわいそうだったけれどね。今、(それとも以前?)、NHKで「チャングムの誓い」をやっている(やっていたかな? なにせ一度も見たことないので)、その一世代前の16世紀の暴君ヨンサングンと、最下層の二人(ひとりは美形の女形)の大衆芸人が、命懸けで宮廷芸人へと抜擢されながらも、宮廷の内紛と王の暴虐、そして王と二人との三角関係へとつながる悲劇。凶悪な暴君の苦悩、孤独、その涙に、こころ撃たれました。大衆芸人といっても、軽業・曲芸から、コメディータッチの寸劇、芝居、楽器と、なんでもこなすわけですが、定住しない-流人は、どの時代、どの国(洋の東西を問わず)でも、差別を受ける最下層の人達なわけです。名作、『さらばわが愛』の覇王と別姫へのオマージュというところもあって、劇中劇で、京劇風の覇王と別姫を真似ているシーンがあります。美形の女形が、かなりレスリー・チャンを意識しているのかもしれませんね。

 ちょっぴり同じ韓国映画で、下層の身分から宮廷絵師に抜擢される『酔画仙』(チェ・ミンシクとアン・ソンギ)の匂いがしました。こちらもかなりお勧めです。

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白川静『文字講話』

  先日、白川静博士が、96歳で逝去された。88歳から、京都で月一度の学習講演会を458240326301開かれていたが、興味をもちながらも、結局、聴講の機会は叶わないものとなった。その時の講演を、全4巻でまとめられたもの。口述なのでその点は多少は読みやすいのだか、凄まじい博覧強記、当代きっての碩学である。

 いわゆる、白川字書三部作(もっとも凡人には、「常用字解」で十分ですよね)を始め、著作集を含め相当な量の書物や論文が刊行され、白川文字学、白川漢字学と称されるが、二千年近く続いた東アジアの漢字の字源解釈を覆すほどの力をもつだけでなく、中国の神話時代から綿々と続く、東アジア、東洋の原精神や風土に遡り、単なる「文字」に止まず、緻密かつ広大なスケールで、東洋の本来あるべき姿の回復を願い続けられたというのである。漢字文化圏が漢字を解体したとき、(韓国のハングル、中国の簡単字、そして日本の漢字政策の誤り)本来あるべき東アジアの平和は崩れ、争いがたえなくなったのは、不自然窮まりなことだと、漢字による、新たな東アジアの文化圏の構築を願われていた。出発は学問の機会もなく、独学で学び、学閥ももたず、その正当な評価は最晩年で、文化勲章受賞が94歳の時。しかも、最後の最後まで現役で活躍され、学問を追求するそのエネルギーは凄まじい物があったことが窺える。

 京都新聞のコラムに、荀子の「口耳四寸の学」について書かれていた。君子の学は、耳から入って心まで辿りつく。体の隅々に行き渡り、立ち振る舞いに現われる。一方、小人の学は、耳から入って、口からすぐ出ていく。口から耳までの長さは、わずか四寸(12㎝ほど)しかない。とうてい五尺の体に行き渡ることはない。いくら、偉そうなこといっても、じっくりからだを通すことのない、聞きかじりの浅い学問の戒めである。

 こんな人に言われると、グーの音もでない。ITの発展で、どんどん便利な社会に進化しているようだが、同時に、人間の浅はかさにも拍車がかかってるのではないか。知らないことは検索さえすれば、簡単に得たい情報が手に入る。しかも、簡単に「知った」だけで、分かったつもりになって、すぐに知ったかぶりをしてしまう。いくら学ぶことが、「真似る」ことであっても、猿真似ばかりしている身が恥ずかしくなる。でも、これからも、耳や目で得た知識を、すぐに分かったふりして、口に出していくのだろう。まあ、聞く方も聞く方だし…。このあたりはご容赦いただかないとなー。

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「年賀交歓」と、明日の成道会

 さきほど、「年賀交歓」(歓びを交わらせるんですね)の初校が(先生の年賀の文言以外は)、やっとこさ、形になりました。ラストの年間行事のところが、非常に時間かかりました。でも、これから校正が待っていますから、完成は早くても、水曜日かなー。

 ぼくのところの言葉も、ドサクサにまぎれて適当に造りました。最初、サルトルか誰かの言葉にしようかと思ったんです。このところ、ヘッセ、カミューと続けましたから。でも、その言葉がどこだったかが分からなくなって結局、このところ味わっている、無盡燈というところで落ち着きました。

 なんと真実そのものの「如」より来生された真実様が、真如に背反し続ける虚仮不実のわが身に飛び込んできてくださって、アカアカとわが胸に、不滅の法燈を灯してくださった。この燈火は、いくら灯しても、灯しても、決して減ることもなく、それどころか、闇を破ってますます光り輝き、拡がり続きる無盡の灯を、ぜひあなたへも灯したい、みたいな内容です。

 明日は、華光日曜礼拝の成道会。高山や奈良からもお参りされます。長女の幼稚園時代、そして小学校関係のお友達時代が10数名くるので、子供だけで20名以上あって、大人と会わせると、総勢50名はいます。昔からの恒例で、カレーライスを食べます。お皿やスブーンがたくさん残っています。経費削減のため、大会などもすべてまかないをしていましたら、その名残です。ただ、長女は、ちょっと具合が悪い(いたって元気ですが)、仏青の忘年会は、欠席の予定。あとは、若いものだけで…。ぼくは、華光誌もありますし…。印刷所から、夕方、本文の初校があがってきましたので、明日観ます。そうそう、その前に、早朝は、学区の清掃作業の奉仕活動ありますね。町内会長前集合。これもあと、2回になりました。

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『燃燈仏授記図浮彫』~MIHO美術館にて~

 『大無量寿経』の正宗分(本文ですね)が、始まった冒頭に、過去五十三仏が名を連ねている。ただ仏様の名前がでてくるだけだが、これにも深いおいわれがある。「過去の久遠無量不可思議無央数劫に、錠光如来、世に興出して……」から始まって、52の如来が次次とお出ましになり、そして53番目に、法蔵菩薩のお師匠様である、世自在王仏が世に出られる。それこそ、途切れることのないめざめの連鎖、連続無窮のお働きが示されるともに、これは法蔵菩薩もまた、初めて仏になられるのではなく、久遠無量不可思議無央数劫の昔からの如来、つまり阿弥陀仏は久遠の古仏であることを窺うことができるのである。親鸞さまも、六首引の冒頭でおあげする、「弥陀成仏のこのかたは、 いまに十劫をへたまり」というご和讃とともに、

 「弥陀成仏のこのかたは、 いまに十劫とときたれど、    塵點久遠劫よりも、 ひさしき仏とみへたまふ」

と和讃され、十久両実(十劫も、久遠も、どちらも真実)の立場をとられている。

 まあ、これはこのぐらいにして、今日は、冒頭の「錠光如来」について触れたかった。ディーパンカラ(Dipankara)の訳で、「燈火を作る」(これもありがたいね。「めざめ」から「めざめ」の無尽灯=不滅の法灯なんだ)。別名を、燃燈仏として知られている。

 釈迦菩薩(前世の釈迦)が、バラモンの青年修行者メーガ(スマティともいう)であった時、この燃燈仏から、「来世において悟りを開き、釈迦仏と なるであろう」との授記(予言)を与えられた説話がある。 この説話は古来より有名で、一般に「燃燈仏本生」と呼ばれているが、ひろく仏像の題材にされているが、題材のあらすじは、以下のようである。

 メーガというバラモンの青年修行僧(釈尊の前生)がいた。燃燈仏(錠光如来)が都にやってくるということを聞き、蓮華を捧げて供養しようとしたが、すでに国王が蓮華が買占めており、入手することはできなかった。それでもあきらめずに探していると、蓮華を水瓶に插した娘に出会い、彼女に頼み込んでなんとか蓮華を分けてもらった。その蓮華を、燃燈仏に捧げると、蓮華が空中に浮かび、燃燈仏の頭上にとどまるという奇瑞があらわれた。さらに、燃燈仏の進む方向に泥水があることに気付いたメーガは、泥水の上に自分の髪を解き(とても長い間、結んだままだった)敷いて、燃燈仏の足が汚れないようにした。燃燈仏は、メーガに対して、「未来に釈迦となって生まれ、覚りを得るであろう」との予言をを授けられるのである。

     Mbbi3     何度か、このレリーフ(浮彫りですね)を見てきたが、MIHO美術館にも、ガンダーラ仏があった。4、5世紀のころのもだという。右のサムネイル(写真)をクリックしてもらうと、少し鮮明になる。立っておられるのが燃燈仏(錠光如来)、左下で土下座している姿が釈尊の前生で、自らの髪をとき、泥水の上に道をつけてくださっている姿である。この仏像を観るたびに、仏様の方が、土下座をして頼んでくださっている、ご修行させているのだなーと味わっていますね。 そして、授記どおり、12月8日、菩提樹の下で、仏陀(悟った、目覚めた方)になられるわけですね。そう、今日は、成道会だったんですね

「久遠実成阿弥陀仏  五濁の凡愚をあはれみて      釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」

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今日も、華光誌の年賀広告~そうか、12月8日か~

 今日も、朝から、仕事部屋に籠もって、華光誌の年賀広告の作製に集中。一件、相談が入っていましたが、先方が風邪でキャンセルになりました。「うつしたら悪いから」と気を配ってくれたようです。もっとも、下の子が、軽い風邪で、保育園を休ませました。お昼には、風邪引きの子供の子守で、かなり遊びましたけど、、。それ以外は、コツコツと作製作業。やりながら思いましたが、この手の作業が嫌いじゃなんですね。だからやれるんでしょう。明日も、明後日も続きます。こんな報告だけなら、詰まらんですね。

いまいま、これをアップして気づいたけど、今日は、12月8日。そう、釈尊の成道会なんだな。

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『弓』と『うつせみ』~今年見たキム・キドク~

 韓流ブーム、落ち着いてきました。一時、映画館のロビーは、「どこから湧いてきたの」というほど、前売券を持ったおばはん、いやいやオバサマ方でムンムンしておりました。もっとも、韓国映画といっても、だれでもいいといいわけではないく、イケメン男優と、女優の純愛映画物。韓国映画でも、キム・キドクやポン・ジュノ監督の作品は、それほど人は入らないけれど、こんな良心的な映画が日本で配給されるのも、ブームの恩恵なんでしょう。

 で、キム・キドクの最新作を、京都みなみ会館でみました。『弓』のお話。ヒロインの少女のあやうい美しさ。夕闇の中、船嵜で弓を奏でる老人のシーンも、上質の影絵劇のようで幻想的だった。彼の作品の中では、いちばん好きでかも。それだけ彼の世界に慣れてきたのかもしれませんが。

 前作は『うつせみ』。京都は上映の関係で、5月に鑑賞。一昨年のベルリンで監督賞を授賞。そのときのグランプリは、マイク・リーの『ヴェラ・ドレイク』。普通のオバサンの名演技に圧倒。善意による中絶問題というディープな内容を、サラリと撮る力量。ぼくはかなり心打たれた、安楽死問題と生きる意味を取り上げた『海を飛ぶ夢』が、男優賞。感銘度の高かった二本と並ぶ評価でしたから、かなり期待してました。

 留守の他人の家に勝手に忍び込んで、一時の生活をする若い男と、忍び込んで家で出会った、夫との絶望的な溝を抱える若妻との、奇妙な「生活」が描かれます。設定がユニークで、展開も面白かったけれど、なんとなく物足りなくもありました。主演のジョヒ(イケメン)と、イ・スンヨン(ミス・コリア)が、一言もセリフがないのは、(泣いたり、おこったりはする)ちょっと不自然すぎないかなー。もっもと、「言葉」によって壊れる、微妙な世界を表現してるのでしょう。それでも飽きさせないところに、力量のある証拠かとも思いますが。

Yumi  で、この「弓」も、主役二人にセリフがない。
 広い海に浮かぶ船の上で、2人きりで暮らす老人と少女。10年前、老人がどこからともなく連れて来て、大切に愛でてきたイノセントな少女も、17歳になる。その日が来たら、結婚式を挙げることを誓い合う。10年間、その船から離れたことのない少女は、いわば軟禁(監禁)状態。船は、釣り舟として、外界の人達が訪れる。老人の弓が、少女に悪さをする男たちから、少女を守っている。そしてその弓は、命懸けの弓占いに使われ、そして美しい音色を奏でる二胡として喜びを歌う。

 ところが、二人の世界が、外界から来た青年によって乱れだす。奇妙な三角関係。老人に反発する少女。嫉妬する老人。二人の運命は、青年の申し出で、弓占いで決められることになる……。

 これから先の展開が見事。ある種、寓話のようで、韓国の伝統的美も重なる物語だった。前々作の『サマリア』にも出演したハン・ヨルムが、イノセントなあどけなさと、同時にエロティシズムの危うさを表情や態度で示して、よかったです。ラスト付近もいい。

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華光誌の年賀広告

 火曜日の夜に、第2回目の「事務連絡会議」がありまして、その後、書き込もうと思ったら、ちょうどサーバーが2日間半の長期のメンテナンスに入ってました。5、6日分がパス。今日も、夕方までメンテ中でした。やっとつながりました。

 華光誌の表紙関係の作製が始まりました。巻頭言や後記などですね。版下を造って、台紙に貼っていきます。細々したところが、ちょっとややこしいですかね。これは終了。明日、渡します。引き換えに、第1回目の校正が来る用意ですね。

 年賀交換の作製も始まりました。こちらは、MAUN.さんの指導で、ソフトを使っての、3年目です。1年1回ですので、去年はかなり忘れていましたが、今年はかなりいいですね。でも、初日は、やっぱりモタモタ。表紙と会わせですが、4ページだけできました。徐々に慣れてきましたが、でも、かなり集中して、1日で6ページが限度かな。年賀交換は、13日(水)渡しの予定。3回目ということで、少し心持ち余裕がありますが、うまく進まないと、やっぱりいらつきますが…。火、水、木曜日と、この作業ばかりでした。しばらく続きます。

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お斎(とき)マニア?現れるの巻

  高山支部報恩講にお参りしてきました。F家の皆様、支部の皆様、お世話になりました。

 例年、ぼくの担当は、3月と12月です。初めてお邪魔した時は、11年前の12月。たいへんな大雪で、びっくりしました。今年は、暖冬ぎみとはいえ、朝はうっすらと雪景色。帰りは、寒くなっていました。

 報恩講さまですから、お正信偈が勤まりますが、今年は、仏青のO君が、五条袈裟姿も凛々しく調声を努めてくださいました。そのあとは、「お斎(とき)」が振る舞われますが、同人の奥さま方が、手作りされた持ち寄りで、高山ならではの山の幸が、きれいにお皿に盛つけられ、お赤飯と、具だくさんの汁も並びました。自家製のお漬物も、美味しいかった! 小さな子供たちもたくさんこられて、総勢45人分。にぎやかでした。これからの相続という意味でも、これは有り難いです。年配の方も、壮年や仏青世代の方も、そしてお子さんが一同に関して、勤行したのですから、文句なく有り難い。でも、お世話はたいへんだろうなー。勤行と、法話の合間に、手際よく並べる手腕は、脱帽もの。いろいろとご苦労もあったようですが。

 今年は珍客ありました。ネットで調査されて、見も知らずの、お母さまと若い娘さんたち4名の計5名が、「お斎(とき)」に同席。その後の法話はあったのに、食事が終わったら、帰って行かれました。お斎マニア? 郷土の家庭料理研究家?などと、皆さんの話題にのぼりました。それにしても、せっかくのご縁だったのに、、。わからないなりにも、ご法話だけでも聞いて帰ってもらいたかったなー。まあ、いろいろなご縁があるものです。

 図らずもですが、今年の高山支部F家の報恩講は、別院から法中が出勤し、参詣者にお斎をふるまい、京都からご講師を別に招くという、なかなか普通のお寺でもいなほどの贅沢な内容でした。もちろん、形式だけじゃないです。中身こそ大事なのですが、これはまた後日。

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『クリムト』

 今日は、午後から京都シネマ。ちょっと2本観る元気なかったので、1本だけ。『クリムト』 観ました。

Klimt_tn_1  19世紀末から20世紀初頭、世紀末のウィーンは、学問と芸術の都として最後の輝きを放っていた。この地で世界を席巻した天才画家くダスタク・クリムトの生涯を、臨終間際の意識の混濁状態での回顧の形式で、幻想と現実の狭間に、華麗に描かれます。細部にこだわった美の再現が、見事っといえば、見事。だだ主演が、ジョン・マルコヴィッチなので、全編英語。廃頽的というか狂気的なムードにちょっと遠くて、美しいけれど、キチッとしすぎの感じもしたけどなー。ちっぴり退屈気味かなー

 クリムトといえば、最近、作品が絵画史上最高額の1億3500万ドルで落札されて話題になったけれど、生前から高い評価(もちろん、妬みからスキャダラス、廃頽的、非道徳的ということで、酷評もされるが)、パリ万博で金賞を受賞、金持ちのパトロンに囲まれ、女性モデルたちと愛し合い、しかも最愛の彼女もいたわけですから、失意の内に、精神がおかしくなったゴッホなんかとは大違い。

 ちなみに、このパリ万博って、例の「オッペケベー」の川上音二郎と、マダム貞奴が大人気になったときで、ヨーロッパの日本趣味ブームの頂点のころ。映画の中でも、調度品や絵画、衣装など、かなり日本の影響が色濃く出ていました。時代は、今日の工業的なインフラの基礎ができるころで、写真も、映画も、黎明期から発展を迎えるわけですね。同じウィーンということでは、精神分析のフロイトが大活躍。音楽の世界では、オぺラではブッチーニが活躍し、マーラーが時代を席巻し、クロード・ドビュッシーがこの世紀転換期に、新しい世界を切り開こうとした時代。ちょうどいま、このあたりの音楽史を読んでいるけれど、ドビュッシーと、クリムトって、生れも逝去も同じ年なんだなー。1862年~1918年に。56年の生涯。ちなみに、ぼくはそのちょうど100年後の1962年(まったく関係ないけどな)に生れだから、そう考えると、みんな大昔の人じゃないわけね。

 帰りは、マノア・マノというカフェで、寒かったので、温かいティーオレ飲みました。おいしかったです。

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これから高山へ

今朝は、少し冷えましたが、いい天気でした。二女の東寺保育園の発表会でした。2歳児組。1年でずいぶん成長しました。臆することなく元気よく歌ったり、演技してました。わりと早めに終わったので、少しだけ余裕がありました。

 いまから高山法座です。何十回目でも、いつも出発時は緊張します。もちろん、なにがおこるか楽しみでもありますが。法座が始まると、ほぐれてくるんですがね。では行ってきます。

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明日は高山支部

師走ですね。今年も残り1ケ月。近年、月日が早く過ぎ去る気がします。こうして、夢・幻のごとく、この娑婆の人生も、アッという間に終わってしまうのでしょうね。

 さてさて、明日は、高山支部法座です。華光誌も印刷所に渡りました。今朝は、気分転換に、みなみ会館で観てきましたが,そのあと、法話の検討と、準備をしていますが、1日では、3席分の十分法話を検討する時間はないので、(話したいテーマがあったけれど)、ちょっと焦りました。

1)正信偈の「如来所以興出世、唯説弥陀本願海」のご文。(報恩講さまなので)

2)華光誌65巻3号「連続無窮のお働き」の輪読。

3)「論註」の荘厳清浄功徳成就の文から、「糞を背負う人」のテーマで。

の3つを用意しています。ほんとうは、三戸独笑師関係の話ししたかったのですが、ちょっと準備不足。ほかにも、テーマはあったのてすがね。

 明日は、あさ二女の保育園の発表会です。顔出してから、新幹線に乗ります。

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『二番目のキス』 Fever Pitch

Kiss2  気分転換をかねて、京都4みなみ会館へ、100分ほどの映画観てきました。劇場がバリ近だと、華光誌と法座の合間で忙しくても、ちょこちょこと出かけて、気分転換ができるのがいいですね。12月1日で、「映画の日」。でも、空いてました。もっとも、ぼくは会員なので、いつも1000円で観れるので、メリットないですが。こんな日は、ライトコメディーがいい。間違っても、ゴダールやハネケ、ソクーロフでは、ちょっと重すぎ。で、「2番目のキス」Fever Pitch、観てきました。

  面白かった「メリーに首たけ」の監督:ピーター&ボビー・ファレリー兄弟。主演女優が、ドリュー・バリモア ときて、男優も、ウディアレンの佳作「僕のニューヨークライフ」に出ていた、コメディアンのジミー・ファロン。だいたいの路線は分かります。ライトコメディで、ちょっとホロッくる恋愛物もの。しかもタイトル(邦題)からは、女性向けの恋愛映画のように見えますが、実は、その路線に加え、野球映画史上に残る快作。特に、大リーグ好き、レッドソックス・ファンにはたまらない1本。野球狂向けですね。何ごとも、マニアといかう、熱狂的するものがある人って、その部分を切り取ると無性に面白い。

 冬、レッドソックスの本拠地ボストンで、ばりばりのキャリーで、セレブを相手に、人生勝ち組のはずのパリモアが、高校教師の男(ジミー・ファロン)の、やさしさと、ユーモアーと、人間的な魅力で引き合い、互いに惚れるんですが、ただ、彼には信じられないほどの1番大事なものがあった。それが、レッドソックス。もう夏の男になると大変。一時、日本でも「ダメ虎」といわれて、人気はあっても優勝から遠かったタイガースなんてもんじゃない。「バンビーノ(ベーブルース)の呪い」で、いつもあと1歩のところで、ワールドチャンピオンに見放されること、86年間。でも、愛すべき球団を、熱狂的に応援しまくってきた。

 ところが、映画の撮影の時に(昨年のことですが)、レッドソックスが呪いから開放されて、奇跡的な大逆転優勝をするわけですね。おかげで映画のラスト変わったそうですが、全面的に球団も協力しているので、ライブでワールドシリーズ優勝するシーンも収められているというわけです。今年だったら、松坂の話題もきっと出ていたでしょうがね。気軽に、楽しめる1本です。

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