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讃嘆コミュニケーションの創造(序)

 最近、仏青の学生さんが、「思いっきり泣ける映画が見たい」と話していた。そういえば、映画にしても、書籍にしても、話題にしても、「感動的!」 とか、「泣ける!」というフレームが踊っている。主人公に同化し、感情移入して、一緒に泣きたいわけである。極端にいうと、そんな「泣ける映画」が、いい映画だということになりかねない。それでは、ちょっと安易すぎるんじゃないかと、危惧している。

 これは仏法のご聴聞にも当てはまるなーと思っている。

 法話でも、法座でも、感傷的な、感情的な、感動的な話や場面を、「有り難い」とする節がある。確かに「情」は大事だ。梵語のsattva(サットウヴァ)は、「生きとし生きるもの」の意味で、「衆生」とも訳し、「有情」とも訳される。その意味では、「情」(こころ)が有るから、生きていると言える。でも、「情」だけだと、一種の陶酔状態、話や雰囲気に酔っているだけということも多い。ご示談などで、泣いてばかりいる人には、なかなか話が伝わらず難儀するケースが多い。自分の気持ちに酔っているだけであって、話を聞いていないのだ。「泣いたのが信心じゃない」という、「華光の求道カルタ」はしごく名言。

  号泣して、念仏することが、獲信ではない。当たり前のことだ。

  で、一方で、聖教をかっちり受け取って聞く「知的」理解という聴き方もある。どうも、こちらは華光の方は、学解往生的だと、嫌うフシがあるが、一般では、真面目な学徒も多い。もっとも、今は、社会に目を向ける人(信心の社会性って、へんな言葉だな)多いが、普通は、お聖教の中に真実を求めていく。だいたい、小学校以来、この学習法を積み上げてきた。知識を細かい要素に分解して、少しずつ段階を踏まえて与えられて、その部分を積み上げることで、学習者が全体を手に入れる段階的学習法に馴染んでいる。それで、浄土真宗も、ダンダンと細かい理解をつなげれば、いつかは全体が獲られると錯覚しているのである。

残念ながら、その方向では、浄土真宗の核心を聞き開くことは絶対にない。

では、単なる「情」でも、単なる「知」でもなく、もしくはこの両者の隘路を破るものはなにか。それか、真宗の讃嘆コミュニケーションだと、細々と提唱している。

  これは、華光で語られきてた、三量にも通底するテーマなのだ。ハハハ、「実践的! 真宗法座論」の題名ぽくなってきたなー。でも、今夜はこのあたりで。

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