« 華光大会初日 | トップページ | 木枯らし一号の日は… »

不滅の法燈

華光大会終わりました。

 まずは、東京支部の皆様、ほんとうにありがとうごさいました。ずいぶん、お疲れになられたことでしょう。

 今回も、いろいろと収穫ありました。まずは、大勢お参りくださったこと。しかもさまざまご縁を通じて、新人も多かった。20代の若い人達も、以前のように、徐々に増えてきていることも尊いです。もちろん、聞き方が変わった方も、心境に変化が起こった方もでられた。

 で、ぼくのところですが、今朝は、ちょっと元気がなかった。いまは、ちょうど腹の左の奥あたりにある、ちょっとした重さというか、違和感というか、いやな感じを味わってます。

 けっこう、よくあることですが、大きな仕事が終わったあとですね。まあ、ホッとして、燃え尽きるのもある。けっこう、いろいろな氣が集まるでしょう。しんどさを置きにくる人、不審や邪気を運んでくる人もある。「元氣」ばっかりではないですから。それよりなにより、ご法の威徳に触れて、凡夫の小ささを知らされるからね。法の偉大さと、その法を、自分のものさしで計らう愚かさと、そこを実地に知らされると、喜びと同時に、わが身の恥ずかしさにも見舞われる。でも、ここにばかりこだわるのは、凡夫の自惚れと聞かせてもらっている。過去に活きているのではなくて、いま、ここに活きているのですからね。

 ご法話は、予定していたところより、そのときのライブ感でお話しました。40分は、その場で感じたところで、レジュメにない話。ラスト、20分程度が、原稿通りに「無盡燈」、不滅の法燈につながっていきました。ご法は、理屈でも、感情でもない、讃嘆談合して広まるものです。如来様が、喜んでくださっている。ところが、みんなは私の「こころ」の喜びを問題にする。それでおかしくなる。十劫も待たれたのですからね。私が、「南無阿弥陀仏」と称えた時の如来様の喜びはいかばりでしょう。そのことを聞かせていただく、そのこころに触れさせていただく。だから、私は変わらないのに、大変化がおこる。私の胸に灯った燈火は、如来様からいただいた燈火なのです。だから、自分のものでありながら、いただきもの。それなら、ケチケチしないで、その燈火をおわけしていく。分けても分けても、燈火は、決して減らない。そうでしょう。喜びを分け合っても減らない。それどころか、逆に回りは、広がった燈火で、ますます明るくなっていく。喜びが広がっていくと、ますます喜んでいける。でも、自分のものにして、小さな胸に留めたり、小さな集まりに留めているかぎり、その燈火は、必ず、燃え尽きてしまう。それでは、あまりに勿体ないなー。特別なことはいらなんじゃないかな。聞かせてもらったまま、喜んでいるままをお伝えしていきたいなー。

 

|

« 華光大会初日 | トップページ | 木枯らし一号の日は… »

法座と聞法」カテゴリの記事

コメント

3日間ありがとうございました。
最後のご法話に”打たれた”というところです。後の座談ではもうなにも付け足す言葉はなく、ただただご一緒した皆さんもそのまま受け取ってもらうだけでいいなと。
ただ、あまりに受け取った方々が今まで大事にしていた法灯をオープンにしたために、まだ悩んでいる方もいっしょに照らされてもらってるところだけで喜んだ気になられていたこと…”私”と受け取ることの大事さも味わっていました。

宝の山にいることで喜べる…その喜びだけを持ち帰ることの寂しさを感じます。

ともあれ、ありがとうございました。

投稿: MANU. | 2006年11月 6日 (月) 23:31

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 不滅の法燈:

« 華光大会初日 | トップページ | 木枯らし一号の日は… »