いよいよですね。華光同人のお祭りが近づいてきました。
今回は、ぼくは、第3日目のご満座が担当です。大会の3日間で、話すことが変わる恐れがありますが、こんな内容を、ぼんやりとも考えています。皆さんにも、分かち合いたいと思います。
浄土真宗では、現世利益のためにお祈りなどはしません。とってもすっきりしています。解決するのは、後生の一大事、仏に成る道です。
しかし、現世利益をいわないのかという、親鸞さまは、盛んに、念仏者が、この世で受けるご利益についておっしゃっています。「現世利益和讃」、根本聖典の「教行信証」の「現世十益」。さらには、盛んに「信徳」(信心を得て得られる、この世の徳ですね)を、極めて具体的に語っておられます。華光でも、他の浄土真宗のお寺でも元旦の修正会では、「現世利益和讃」をいただくところが、多いです。
これがけっこう、かなりヤバイです。若い時は、ちょっと馴染めなかった。
念仏を称えるものは、いつも天神や地神が護りづめだとか、諸仏が褒めたたえるというのはまだしも、「定めで若死するものも、決して早死にしません」とまで言われている。
また、ご本典には、この世でうける十個のご利益について書かれている。真実信心のものは、慈悲のこころで、常におこないができるとか、悪を転じて善になるとか、常に、心に歓喜や喜びが起こってくるとか、常に光に包まれているとかね。この世のなかでいただく喜びの表現は、言い出すときりがないほどです。
もちろん、最後は、「現世での正定聚」(この世のなかで、仏に成ることに確かに定まる)ことに、収まるわけですから、これが一番、大切なのです。
つまり、真宗の御利益は、現当二世にわたるご利益だといのが、浄土真宗の教義です。現世(今生)、そして当来世(後生)ですね。華光でも、そう言ってきています。後生の解決が、一層目。その上で、二層目に、この世の中でも、たいへんな幸せがいただけるわけです。
ところが、一般では、一層目を軽く、二層目の感謝の日暮らしや、喜びの生活だけを強調している節があるので、華光では、ことに「後生の一大事」の解決こそが、浄土真宗、それが仏教の正道だと言い続けています。
ただ、その場合でも、教義(聖教量)としては、後生の夜明け(五趣八難を超える)をさせてもらったものは、今生では、歓喜の生活が送れる、悪が転じて善の生活、光明に照らされた喜びの生活が送れる、そう表現できるのも浄土真宗だと、親鸞さまが仰っていることは、押さえておく必要があります。
もちろん、それが、第一の目的ではなくて、付録なんです。そこを求めても決して得られない。そこが大きなミソ。求道する時は、まず、それを否定されるところから始まります。
しかしです。信心獲得の身になったら、信心の徳としては、身にあまるご利益を、今生でいただくというのです。
しかし、自分の上には、実感がない。実感かないからといって、そこで腰を下ろしてはいけない。実は、これは、他力信心のお徳です。だからこそ、それに背いている自分が知れてくる。狂うほど喜んでいいのに、それを喜ばない。「ああ、恥ずかしいなー」と、深く懺悔されるのも、そこから出ているんじゃないでしょうか。
「南無阿弥陀仏をとなふれば 十方無量の諸仏は
百重千重囲繞して よろこび、まもりたもうなり」
こんな泥凡夫の生活をしながら、この身に、諸仏方が、幾重にも、幾重にも、連なって、よろこんで、護ってくだる。この諸仏方の喜びが、わが身に伝わらないはずがないじゃないですか。ぼくが喜んでいるんじゃなくて、仏様方が喜んでくださっているんですね。勿体ない話です。恥ずかしいことですが、凡夫ごときが、いくら喜んできりがないんですが、もっともっと喜びの表現をしてもいいですね。あまりにもシャイすぎる、あまりにも気取りすぎている、ぼくがいます。いつも眉間にシワをよせて、この世のなかの悩みをすべて引き受けたような顔してます。
毎月、広島支部にお参りさせてもらっていて、よくこんな話になるんですね。「喜びなんかない」なんて、言い続けていても意味がないんじゃないの。それは、わかりきっている、私の自性。でも、教えを仰げば、いくら喜んでも、喜んでもきりがないほど、喜べるご法じゃないか、それほどのお徳を、今、この世の、この身にいただいているんですから、それをもっと声に出していこうと。あれは、いわば、ぼく自身に言っているようなものです。
ああ、華光大会が近いでしょうね。なにか、ワクワクとしてきました。