一足早く高山では…。家内の姿勢には教えらるなー
ぼくは、明日、広島から、九州の支部法座で、父も、東海支部。華光会館でも、日曜礼拝がある。ところが、法座案内にはないが、今日、一足早く法座に出かけて人がある。うちの家内である。しかも、三歳と六歳の子連れで、高山での、ママの集いと、日曜礼拝にお招きいただいた。
とにかく燃えている。いろいろな場面で、自分を実現させることに、やりたいことに熱情を注いでいる。そのことで、家事や家庭生活の面で、ぶつかることはあるが、そのことはいまは置いておいて、「仏法広まれ」の熱意には、学ぶことが多い。
毎月一度の「暮らしのカウンセリング」も、新しい人達が次々と参加されて、徐々に仏法にふれる機会を結んでおられる。もちろん、さきほどの広島の例ではないが、一足飛びに「ご法」にふれることは難しいので、まずは、その敷居を低くすることを念頭に、活動している。華光は特別ではないというのが、信念で、誰でも、どんな気持ちの方でも、まず参加してもらって、そこに触れてもらいたいというのである。そのために、華光会のホームページも刷新した。掲示板も誰もが入り易い形式で出発している。
その点に関しては、相談を受けるが、彼女に一任している。なぜかというと、初めての方にお勧めするという点に関しては、いまの華光の中で一番、実績があるからだ。彼女自身、まったく仏法など聞いたことのないところから出発して、そこからまったく話を聞いたことのない両親や、友人や、それも大学、高校、中学、そして小学校の友人や、はたまた出産仲間、子供の幼稚園の親たちと、これぞと思う人には、その人の相談にのり、気持ちを語り合い、自分を開いて、ご法のすばらしさをお話しできる中になっている。そして、その中から、何名もの方が、同人になり、聞法されるようになり、支部活動を支えて活躍されている人まで出てきた。まだ潜在的にはかなりのご縁を結んでいるだろう。
ここですばらしいと思うのは、「こんなことをいったら嫌われんじゃないか」とか、「人集めだけの新興宗教じゃない」とか、「法は、自然と集まるから」といった、へんな意味でのプライドや、言い訳がない点だ。自信をもって、ご法のすばらしさを伝えている。それも、ただ一方的に伝えるだけなはなく、相手の悩みを親身に聞き、お互いが信頼感をもち得た時だけに、自然な形でお勧めしている。それに、そのことが楽しそうなのが、一番だ。
行動力もある。以前から希望していた、東京での華光会の講習会(講演会)を含む法座も、誰も企画できなかったのが、彼女が、計画をたてて、動きだした。それに合せて、ぼくに執筆をせよともハッパをかけられている。
その前に、華光大会のチラシまで作製した。これを、ご近所のボストに入れるという。本号の華光誌に、大阪支部のEさんが、行事鐘を鳴らすことで近所からクレームがついたことを嘆いておられた。そこに、「どうぞ、鐘がなったらお参りください」とのチラシを入れたらどうかとの記事があった。さっそく、それを実現したのである。
それを聞いたときは、ちょっとビックリというよりも、少し心配もあった。どの程度、成果があるのか。またどんなリスクがあるのかわからない。もちろん、これまでのポスターや新聞広告のように、まったく反応がない可能性も高い。しかし、まずは一人でも、ご縁を結んでもらわなければ、何も始まらないじゃないか。無明の世界にあって、華光はそれだけの内容のことをやっている。ただ願うだけで、ウジウジ心を穿鑿している暇があったら、また、簡単に無理と決めたり、リスクばかり数えていても仕方がない。「おもしろい」、「いい」と思ったことは、すぐに行動化する。だめなら、変更すればいい。それが彼女の姿勢だ。
正直、慎重派のぼくには、少々かけている点でもある。たとえば、今回の高山にしても、ぼくなど、「子連れで迷惑かけんかなー」との心配の方が、先に立ってしまう。だから、新しいことを提案されると、ちょっと抵抗感がある。同人の皆さんからの、反応もだいたい分かるし、何かを変えるときの反応も、予想がつく。もちろん、そんな声にも、十分配慮せねばならないのは当然だ。しかし、いつも彼女は、華光の外のことも考えている。そんな、彼女の前向きな、熱意を、たとえぼく一人だけであっても応援してみたいと、いまは、思っている。
いつも、夫婦ゲンカのネタばかり書いているので、今日は仲睦まじき姿を披露したんじゃないかなーいやいや、お粗末さまでした。
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コメント
とても素敵なお心を聞かせていただきました。ありがとうございます。かりもんさんの「~たとえぼく一人だけであっても」のお心は通じていると思います。奥様の行動力を支えるモノが本物(如来さんのお働き)ですから。だから、色んな思いあっても許せるというか、辛抱できるというか、我慢できるんですね。そこには、かりもんさんが、自分に無いモノを奥様に気づき、時に腹立ち、嫉妬しながらも素直に認めれれ、評価されている、そして任せておられる。そのことは奥様からも感じられます。お二人に強い信頼感を感じます。さて、我が家はどうか?妻が今の私を尊敬(精神的に一目を置く)ところがないから、今は子供をつなぎにしているよです。これもいつまでのことやら・・・。11月のこどもの報恩講よろしくお願いします。
投稿: 稜季の父ちゃん | 2006年10月23日 (月) 08:27