罪悪観と無常観の接点
今日は、朝から足場の解体作業が始まった。足場設営の時もそうだったが、大勢の職人が、手際よく作業していく。かなり騒がしかったが、おかげで足場の撤収作業は終わった。いままで全面がシートで覆われていたので、室内に急に光が差し込んで明るい。外観も見違えるほどきれいになった。玄関のドアの鏡面や、側面の「華光会館」のステンレスの看板文字なども、業者に磨いてもらったので、光輝いている。明日からは、足場のために出来なかった玄関部分の塗装など、最後の仕上げだ。
夜は、伝道研究会。『念仏の雄叫び』から「罪悪観と無常観」を輪読している。特に、まとめの、罪悪観と無常観の支えるものの章は、求道上でも、また大切なお勧めのポイントになる重要なテーマ。一見、別々の事柄でありながら、両者が、「いのち」と「時間」という接点でつながっていること。自分のいのちをながらえさすために、相手のいのちを奪っているという罪悪観と、どこまでも、自分は死にたくないという無常観とが、「いのち」という接点でつながっていく。それを内省できるのは、地獄や餓鬼、畜生界ではダメ。人間だけが、漸愧の心をもちえる。実は、そこに、無量のいのちと、無量の光の主である、阿弥陀様のさとりのいのちがかかっているからである。そして、そこで照らされてくるのは、まったく「無漸無愧で、畜生にも劣る自分」でしかない。自分ではなく、如来様こそが、私の罪悪観・無常観を取り詰めてくださり、一大事をかけてくださっている、そのお心を聞かせていただく。そのためには、「ほしいと思ったら、盗んだも同じ」「憎いと思ったら、殺したも同じ」という、こころの内省こそが、真宗の具体的な聞法なのである。そこを内省していかいなと、単なる道徳や行動を律しせえすればよいという話になる。もし、そこを我が身に詰めていくと、「そんなことを言ったら生きていけないじゃないか」と追い詰められていく。実は、ここがポイントなのだ。私が「生きていくのが当然」ということ自体が、すでに西洋・キリスト教的な価値観であって、仏教では、私のいちも、他の生きとし生きるもののいのちも、同等だと説かれている。これこそが、「我」がいのちに執着し、それが、いつまでも変わらず、正しく、浄らかであると轉倒している、迷いの根源だといっていい。まさに無明なのだ。罪悪とも、無常とも、微塵も思っていない自分が知らされてくるのである。浄土真宗ひろしといえども、ここから後生の一大事と、信疑廃立へと展開して、具体的に聞法の教示をしてくださるところは、そうザラザラないですぞ。
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