« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »

2006年10月の35件の記事

三戸独笑師のご縁

 このプログに、三戸独笑師の名前を一行だけ書いたことがあります。経緯は、初見の方から、妙好人さんについての華光での取り扱いについて、かなり詳細な質問を受けたこと。一見して、ある会に属されていて、そこでの、法話などで取り扱われている文章について書かれていましたが、それがどうも不思議。ぼくが知っている範囲の「妙好人伝」(一般に流布しているもの)を逸脱していて、話が合体されていたり、かなり都合よく解釈されたり、妙に詳しかったりしているんです。それで、その方は、そのルーツを求めて、華光会にも探りを入れておられたようです。なかには、妙好人の話が入れ代わっているものもありましたが、その中のおひとりが、独笑師でした。そのことに、一文だけ、触れたんですね。

 どこに、どんなご縁があるかわかりませんね。その文章に反応がありました。ほんとうにびっくりしました。

 日曜日に、このブログに、コメントが4つも入っていました。しかも、知らない女性名。てっきり、あの手のサイトのものと思って、削除しようとしたら、これがまったく違っていて、三戸独笑師のお孫さんと名乗る女性でした。いまも、ひとつだけコメントを残しましたが、とにかく、お返事をだしてましたら、すぐに返答が返ってきました。

 華光誌の第3巻(昭和18年でしょう)5号に、三戸独笑師の、ご法縁にあった華光同人が、一言その感想と、「ないないづくし」という、独笑師の歌を入れておられます。その他にも、もう1首、「必勝は心力なり」という、かなり時代を反映した、勇ましい歌もあります。  

 三戸独笑師については、法蔵館から出ている「妙好人の世界」に、信仰問答の達人として紹介されています。これを華光のM先生が、ご法話してくださったことをよく覚えています。「聞いても落ちる」「聞かんでも落ちる」という奴です。昭和19年まで、広島で活躍されていたようですから、最晩年の出会いですね。

 独笑師のお子様が、なんと広島で開かれる家庭法座の会場のお近くなので、なかなかお参りまでは難しいだろうなと思いながらも、お誘いをだしておきましたら、さっそく、「母と二人で、11月の広島法座にお参りしたいです」との、お返事がきました。

 いやはや、なんともうれしいです。この仕事に携わっていて、後生の夜明けをされる方が誕生することが、一番の喜びですが、それには、まずお参りしてもらわんことにはね。その意味で、こんな風に、新しいご縁が誕生することが、とてもうれしいんです。

 最近、いろいろなところで、いろいろなご縁をいただいいます。華光会館での法座より、地方の法座の方が多いですね。今月の東京も、広島も、そして九州と、の法座にも、まったく初めてお会いする方か参加くださっていました。中には、浄土真宗のお話を1度も聞いたことのない方もおられる。それも、ネットで知った方、友人の紹介、セールスをしいて、別の講演会で聞いてと、動機はさまざま。年齢も、20代の女性から、30代、40、50、60代とさまざまでした。特に、九州の法座は、参加者は15名ほどでしたが、初めてや、それに近い方が6名あり、しかも、皆さん積極的で、とてもいいご縁になりまた。

 華光大会や大きな法座ではあまり目立ちませんが、地方の法座は、20名前後のミニ集会のようなものです。それで、初めての方が、2、3人おられると、しっかりと関われます。支部法座は、同人の皆さんで、話し合って運営され、なかには新聞広告や、チラシ、時に駅にはボスターをはったりと、いろいろと努力されています。なかなか思うようにはいきません。それでも、地方の皆さんは、皆さんなりに、口だけてなく、体を使った聞法されているわけです。

 中でも、友人を連れてきてくださる。ほんとうに、最初から「後生」に焦点が定まっている人なんて皆無。当たり前です。今年のことですが、「これから愛人を殺しに行く」(マジです)人から、「悪霊がついて一家離散状態の解決」(これもマジです)から、「霊視できる方」まて、ニューエイジ派から、おかげさま派、伝統派、今生癒し派まで、そりゃ、さまざまの方がいらっしゃいます。そこから、聞法のご縁がつく方は、ほんの一握りかもしれませんが、それでも一座でも法座に座っていただことが、宿縁になるのでしょう。一度きりの出会いの方もありますが、その出会いが大切な気がします。

 以前、華光には、独笑師の孫弟子にあたる方も、お参りくださっていましたが、いまは、ご縁がきれています。念のため、昔の電話にかけてみましたが、まったく別人がでられました。残念ながら、このルートは行き止まりました。

 とにかく、ご縁が生れましたことを、率直に喜んでおります。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

10月に観た、イタリー現代史の映画3題

 さて、10月は、偶然ですが、イタリア映画を3本観ました。

 まずは
、「13歳の夏に僕は生まれた」

Once_youre_born_0113  前半、けっこうドキドキしました。新興の富裕層に生れた子供が、父親たちと、ヨットでクルージングにでます。誤って海に転落するのですが、そこから物語は、難民問題、南北の経済格差の問題に展開していきます。難民を締め出している日本ですが、先進国やイタリアが直面している大問題。もう、子供の力では、どうしようもないし、一市民の力でも、どうしもよない問題です。でも、何ができるのかを、みんな、少し見つめていく感じがしました。ラストがなんとも、静かに、フォカース・アウトしていきます。このラストのなんだ? この 「?」がよかったかな。
 昨年でしたか、6時間をを超える上映時間で話題をさらった、「輝ける青春」の監督さんです。これは、個人史を追いながら、イタリー現代史を語る、大河ドラマ。話題性だけなく、その内容も、ぼくは好きでした。特に最後は、暖かな涙を誘うなー。自宅で、一気に、6時間見るのは、ちょっと無理でしょうがね。

 そしてもうひとつが、「夜よ、こんにちは」。

イタリー現代史の最大事件、モロ党首誘拐殺人事件(赤い旅団)を、犯人側のひとりの女性を題材にしてものでした。真面目な作品でしたが、ぼくには、ちょっと退屈でした。途中、コックリしてしまいました。

 そして、先日の夜は、京都にイタリア文化会館という、イタリア大使館の文化部があるのですが、そこで、イタリア語週間があって、1/4程度は、イタリアの人たちと、(字幕ですが
)、「星降る夜のリストランテ」を観てきました。知らない場所なので、ちょっとドキドキしながら予約して出かけました。

 これは、98年と作品ですが、あるレストランの一夜の夕食の、知的な会話の物語。さまざまな出会いや、会話があります。不倫に、出会いに、別れに、母子の葛藤にと…。ちょっと東洋人(日本人か韓国人かも)の家族の描かれ方に、恥ずかしくて目を背けそうになりますが、これも大事な役回り。ハートフルで、食事と、会話を楽しむ1本。イタリー映画ですが、ファニー・アルダンが、女主人。マリー・ジランも(ベルギー出身じゃなかっかなー)もでいます。

 映画内容ではないですが、イタリーの人達は、おもしろい場面は、大きな声をだして笑うんですね。日本の劇場なら、もう少しみんな静かに観ますね。楽しんでるーて感じでした。
 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

修繕工事、完了!

 やっと修繕工事が、完了しました。

今日も、横の通路の外部バリカーのペンキを塗り替えましたので、もう1日だけは、通路が通行止めになっています。ほんとうに、9月1日から始まって、10月31日までかかりました。工事期間は、2ケ月間でしたが、8月下旬から打ち合わせやら、ご近所への挨拶回りもありましたので、「長かったなー」というのと、こんなに、点検やら、打ち合わせやらが多いとは思っていませんでしたので、結構たいへんでした、といのうが、実感です。今日は、「ご苦労さまでした」と、関係者の方に、ご挨拶をして終了。 途中経過はかなり順調で、早く終了するかと思っていましたが…ギリギリで、「華光大会」に間に合います。

そうそう、子供の保育園にお迎えに東寺にいったら、門前に、振り袖姿の女性が、手々しゃれた提灯をもって、皆さんをお出迎え。とても華やいだ雰囲気。いつもなら、閉門の時間なのになーと思っていたら、イベントがあったんですね。ちょっと覗くと、これからマイケル・ナイマンのコンサートなどがあるらしい。マイケル・ナイマンか。「ピアノ・レッスン」とか「髪結いの亭主」のとても印象的な映画音楽を担当して、夫婦共々好きなピアニストですからね。こんな近くでイベントあるのに、まったく知らずに、惜しいことをしました。境内は、ライトアップされて、かなりいい雰囲気でした。もっとも、これもあるイベントの一環で、メーンは別にあるようでしたが…。

  どうせ今夜は、近くにあるみなみ会館へ、会員招待の映画(チェコの映画。好きな監督だった)の予定だったしなと思い直してものの、こちらは、うっかり開始時間を勘違いして、アウト!  勿体いないなー。まあ、大会前で、残務もありますので、あっさりと割り切れました。

華光大会は、講師の先生方へのご法話の時間や、信仰体験発表のお願いなども、すべて完了しました。なかなか、宿泊の参加希望者が多くて、〆切後は、宿泊をお断りしています。毎回のことでが、京都や近郊の方も、ご遠慮願っています。地方の法座もいいけれど、こうして華光会館での宿泊法座も、また格別。特に、華光大会は、華光同人のお祭りですから。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

町内会の遠足

  :華光大会まで、5日となった。大会前の日曜日は、準備のために法座の予定をいれなかったが、今年は、町内会のリクーレション(バス旅行)が入ってきた。というより、ぼくの予定でこの日にしてもらった。10月で開いていたのが、今日だけだったもの。京都でも、さまざまで、旅行などのない町内も多いけれど、うちは、集めた町内会費を、このために使っている。それでも、1/4程度の戸数の方しか参加しませんが。

061029_113200_1 町内に、バス会社にお勤めの方がおられて、その方に相談したら、滋賀県のマキノ高原を推薦してくださった。偶然ですが、自力整体の合宿で利用しているところで、ちょっとびっくり。ちょっと時期がづれて、栗拾いは終わっていたけれど、リンゴ狩りをして、そのあと、ちょっと豪華にバーペーキュウーを食べ、あとは温泉にはいって、ゆっくりした。天気もよく、緑や景色もきれいで、さわやかな一日でした。でも、やはり疲れましたね。子供や奥方は、もう9時前に寝てしまいました。                  

 バス旅行は、華光の聞法旅行しか知らないので、かなり不思議な感じしましたね。食事も、「食事の言葉」などなく(当たり前)、適当に始まる。車中も、親切度もない(華光がおかしいんですよね、仏教讃歌や詩歌集を歌ったり、ゲームをして盛り上げますから)。もちろん、タスキも、名札もつこない(これは当たり前か)。ほかの役員さんは何もできないのに比べると、ぼく自身は、お世話をすることが、身にシミつていることだけはよくわかりましたね。子供大会や、聞法旅行などで、鍛えてもらった証拠ですね。普通の人は、何をしていいのかわからんものです。ぼくにとって、当たり前に動けたり、気づけたりすることが、何もできない。ああ、これもお育てのおかげだねと、妙なところで感心しました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

最終、最終、最終確認で感じたこと

 修繕工事、ほんとうに最終段階まできました。

 今日は、3度目(?)の最終点検。18日に、設計管理をしてくださっている広島のMさんを交えて、施主側の最終点検がありましたが、それではまだ未残の工事部分があったので、24日(火)に再度の点検。それでも、まだもう1度必要で、今日が、3度目の最終点検。足場は撤収されたので、屋上と、玄関から見て回りました。また2階の炊事場と女子トイレは終了。炊事場もカランが3つになり、収納の扉も、開き戸から、引き戸にするなど、できる限りの使い勝手のいいようにしました。女子トイレは、個数は増えていませんが、4つのうち3つが洋式になり、最新のウオシュレットがついたので、かなり快適になるでしょう。

 それにしても、毎日、工事状況の変化を観ていると、「随分、きれいになったなー」というが実感されます。外壁の色も、少し黄土が強くなったでしょうか。ベランダは、ネズミ色。しばらくすると落ちつてくるでしょう。外回り(特に玄関や駐車場の入り口)の天井も、明るいクリームで、外壁と調歩しています。皆さんが日頃ご覧にならない、屋上や、そして非常階段なども、ずいぶん変わりました。

 でも、このあたりは、皆さんは前を意識されていないから、ほとんど実感が湧かないでしょうね。会館に勤務の某嬢が、高圧洗浄で、白くなった屋上がとてもきれいになったことが、「ヘエー。そうなの」と、まったく分からない様子。逆にいうと、ぼくが使いがってがよくなって炊事場にしても、うるさ型のご婦人方からみれば、細部に不満を口にされる方も、きっとおられるでしょう。

 同じ事実を体験をしていても、それぞれの業で、見えている部分と、見えていない部分があるわけです。ぼくたちの目は、かなりの節穴なんです。焦点づけ(ファカース・インですね)をして、ある箇所にスポットをあて、微妙な変化をみていかいなと、見逃してしまうことだらけ。同じ法話を聞いても、人それぞれが気になるところが異なるので、せいぜい寄り合って、談合をして聞き合いなさいと、蓮如さまが仰るわけです。そりゃ、そうでしょう。これまでの人生経験の蓄積もある。いまの関心も、そのときの感情や気分も違う。興味のあることには反応するけれど、そうでないことは、関心も示さず、すぐ忘れ去っていく。ほんとうに都合よくできているものだ。逆いうと、それだからこそ、大きな顔をして生きて行けるわけですね。ありのままが、ありのまま認知され、感じられ、記憶されていったら、こりゃ、恐ろしくて生きていけませんわ。いやはや、無明とはよく仰られた。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

明日は、町内の遠足。

 今日は、家内が、華光大会の「チラシ」のポストへの配布を、早朝4時30分に起きて出かけた。ちょっと、このことをめぐっては、あるところで物議を釀し、賛否両論。ぼくには、ぼくの言い分もあるが、それはまたの機会にしても、彼女の熱意には脱帽だ。下の子が、早く目を覚ませて泣きだして、ぼくもちょっと早起き。

 久しぶりに自力整体に出かけたあと、修繕工事の最終の点検(撤収や微細は月曜日に残っているが、それが最終日になる)。そのあとは、家内が担当している相談活動があるので、下の子を連れて、公園で遊んだ。いやはや、やる気である。子供は、まだまた赤ちゃんだけど、ずいぶん、成長したとも実感させられる。3歳。可愛いのだけど、しっかり自分を主張して、たいへん。うまくバランスとれながら、成長するから不思議ですわ。

 明日は、町内会のリクーレション(バス旅行)。自力整体の合宿でいった、滋賀県のマキノ高原にした。リンゴ狩りをして、バーペキュウーを食べて、あとは温泉で入るという企画。ビールなども買い込んだ。あとは無事に家族4名で参加するのみ。(子供が小さいと、これがまた一仕事だけどね) これで、町内会は、大きな行事が終了する。12月に寄付が1回と、地域清掃活動が2回程度あるだけかな。今日は、早寝しないとな。かなり眠い。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

『キンキー・ブーツ』と『フラガール』

  さて、映画ネタ続きますが、ご容赦ください。

 日本映画では、「フラガール」も悪くなっかったですよ。炭鉱が斜陽となるなかでの、東北の炭鉱町に、ハワイを造ろうという、ウソのような実話(常磐ハワイアンセンター設立の物語)。昭和40年のこと。そう遠くないですね。世代世代を超えて女性陣がたくましい。生活かかってますから。それに、キャラもかなりハッキリ、わかりやすく描かれていました。ちょっと安定調和気味ですが、その分、安心して観れます。けっこうおすすめかもね。いつも、マイナーな、アート系ばかり紹介しているけれど、ぼくも、少しは話題作も観ます。アカデミーの外国語部門の日本代表になったんじゃなかったかなー。

Boot_1  でも、これ以上によかったのが、「キンキー・ブーツ」。直訳すれば、変態ブーツ、女王様ブーツという、ド派手なもの。舞台は、イギリスの片田舎。昔ながらの手仕事での紳士靴の町工場。父の急死で、渋々、社長になってみると、時代の波に乗り遅れて倒産状態。保守的な片田舎での、起死回生の一発は、ドラッグ・クィーン御用達の女王様ブーツという、隙間産業で生き残ろうと、ミラノでのショーを目指すといううもの。モチーフは実話なんです。これが、かなりよかった 。ぼくの琴線に触れて、なぜか、涙腺がゆるみがち。UK製のこの手の、ダメ人間(男)が、成長する、ハートフルで、しかもコメディー路線が、大好きですね。主人公のみならず、腕っぷしの強い、黒人のオカマさん自身の成長物語でもありました。

 シリアス度も高いけど鉄鋼不況のなかで逞しく生きようとする佳作「ブラス」や、涙ぐましいほど、真面目で、おかしい男性ストリッパー「フルモンティ」、そして、美容室の再建をめざす、「シャンプー台の向こうになどの系統のイギリス映画、文句なく好きです。

 今回も、イギリスの社会状況をうまくとらえている。ドラッグ・クィーンたちのおバカぶりもそれなりによかったし、音楽もお洒落。別に観てきた家内は、サントラまで買うほど、ハマリぶり。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

『ブラック・ダリア』

 このところ法座や修繕工事関係(今年はこれが余分)などで、バタバダしていた。今日は、久しぶりにゆっくり過ごすことにした。朝イチに映画を観てあとで、今月のエスクァイア(日本版)がお茶特集。そのなかにも紹介されていた(オーナーに話したら、うれしそうだったなー)、ティ・コンセプションで、ゆっくりとランチして、本屋も覗いた。いや、ちょっと優雅の時間をもとて、かなり満足。

 さて、観たのは、「ブラック・ダリア」。いつものみなみ会館や京都シネマと違って、大手のシネコン劇場。ここは会員料金はないけれど、6本観たら、1本が招待になるシステム。ちょうど招待だったので、これは無料。

Black_dahlia_1  40年にロスでおこった「世界一有名な死体」という猟奇殺人をモチーフにした、ミステリーというか、フィルム・ノワールもの。ストーリーに触れない方がいいでしょうが、今や、世界一セクシーな美女、スカーレット・ヨハンソン(ぼくには、理想の人や真珠の耳飾りの役どころより、マッチ・ポイントのときの彼女の方が好きですが…)が、清楚な人妻でありながら、過去にわけありで、魅力的な男性二人との、不思議な三角関係を持つ女性。でもそれより、ヒラリー ・スワンクが、セクシーで魅力的だった。昨年オスカーを獲得した、女ボクサーのタフなイメージから一転。(成りやがりの)大富豪の令嬢ながら、いかがわしくて、ふしだらな、秘密めいた役どころ。もっもと、男性二人が主役。ジョシュ・ハートネットとアーロン・エーカート。警官でありながら、一方がクールと、一方がホットなボクサーとしても活躍している両者の、相棒でもあり、しかしその奥にいわくがある。そのことが、「世界一有名な死体」の捜査の過程で、謎解きが進んでいきます。ちょっと後半あたり、バタバタと進行して、解決していく感じがして、このあたりをもう少し丁寧に描いていたらよかったと思ったけど。でも、全体的には、よく練られていたと思いました。もっもと、最初は、相関関係が理解できるまでは、ちょっと時間かかりました。外人の名前は苦手じゃー。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

罪悪観と無常観の接点

 今日は、朝から足場の解体作業が始まった。足場設営の時もそうだったが、大勢の職人が、手際よく作業していく。かなり騒がしかったが、おかげで足場の撤収作業は終わった。いままで全面がシートで覆われていたので、室内に急に光が差し込んで明るい。外観も見違えるほどきれいになった。玄関のドアの鏡面や、側面の「華光会館」のステンレスの看板文字なども、業者に磨いてもらったので、光輝いている。明日からは、足場のために出来なかった玄関部分の塗装など、最後の仕上げだ。

 夜は、伝道研究会。『念仏の雄叫び』から「罪悪観と無常観」を輪読している。特に、まとめの、罪悪観と無常観の支えるものの章は、求道上でも、また大切なお勧めのポイントになる重要なテーマ。一見、別々の事柄でありながら、両者が、「いのち」と「時間」という接点でつながっていること。自分のいのちをながらえさすために、相手のいのちを奪っているという罪悪観と、どこまでも、自分は死にたくないという無常観とが、「いのち」という接点でつながっていく。それを内省できるのは、地獄や餓鬼、畜生界ではダメ。人間だけが、漸愧の心をもちえる。実は、そこに、無量のいのちと、無量の光の主である、阿弥陀様のさとりのいのちがかかっているからである。そして、そこで照らされてくるのは、まったく「無漸無愧で、畜生にも劣る自分」でしかない。自分ではなく、如来様こそが、私の罪悪観・無常観を取り詰めてくださり、一大事をかけてくださっている、そのお心を聞かせていただく。そのためには、「ほしいと思ったら、盗んだも同じ」「憎いと思ったら、殺したも同じ」という、こころの内省こそが、真宗の具体的な聞法なのである。そこを内省していかいなと、単なる道徳や行動を律しせえすればよいという話になる。もし、そこを我が身に詰めていくと、「そんなことを言ったら生きていけないじゃないか」と追い詰められていく。実は、ここがポイントなのだ。私が「生きていくのが当然」ということ自体が、すでに西洋・キリスト教的な価値観であって、仏教では、私のいちも、他の生きとし生きるもののいのちも、同等だと説かれている。これこそが、「我」がいのちに執着し、それが、いつまでも変わらず、正しく、浄らかであると轉倒している、迷いの根源だといっていい。まさに無明なのだ。罪悪とも、無常とも、微塵も思っていない自分が知らされてくるのである。浄土真宗ひろしといえども、ここから後生の一大事と、信疑廃立へと展開して、具体的に聞法の教示をしてくださるところは、そうザラザラないですぞ。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

工事も、ラストスパート

 華光会館の修繕工事も、工期残り1週間となりました。

 今日は、18日に続いて、業者立ち会いで、MAUN.さんも一緒に、前回の最終確認でまだ積み残した部分の、最終確認をして回りました。今度も、屋上から細い足場をづたいに、会館のまわりを一周して、細かな部分の確認をして回りました。看板も、外部に発注して再度磨きを直してもらたところなど、足場がなければ決して見ることのなできない部分の確認でした。かなり雰囲気が変わりましたね。でも、以前の色を覚えていないと、あまり印象が変わらない人もいるようです。手すりとか、非常階段とか、屋上とか、ベランダとか、軒下の天井とか、かなり色が変わりましたが、どの程度、皆さん意識されるでしょうかね。明日からは2日かけて、足場の解体に入ります。それか終わって、足場があったためにできなった部分の作業が、3日間続きます。予定では、期限ギリギリの10月30日。31日には、完了のメドが立ってきました。

 炊事場、便所も工事は進んでいます。こちらももう一息というところ。大きな作業はあらかたすみました。

 お化粧が進むと、逆に、手を入れていないところの汚れが目立ってきます。これが新築時との一番の違いです。きれい補修されたところと、そうでないところがクッキリしている箇所は、また次の改修工事の課題かなー。でも、とにかくあと1週間、

 夜は、仏青の役員同士が、それぞれが自分の仏青や他の役員のいいたい事、不満などを出し合う話し合いがありました。夕食までご一緒して、あとは、家内が行司役。その間、ぼくは子守をしたり、寝かせつけたりしました。子供たちは、可愛い盛りですが、まだまだ(とくに下の子は)手がかかりますね。

 今年は、町内会のこととならんで、工事のことで随分、手も、時間もとられます。それもまうわずか。でも、気がつくと、華光大会が迫ってきています。法話してくださる先生方への連絡は終わりました。これからは、そう、信仰体験発表の人選です。中には、しり込みされたり、そのせいで参加を躊躇されたり、説得もなかなか骨がおれるんです。もしこれをご覧になっておられる方。ぼくから、電話があったおりに、「ヘイ、承知」と、二つ返事でお願いしますよ。

稜季の父ちゃんさん>いやいや、なんと温かいお言葉、恐縮します。でも素直にいただきます。ありがとう。感銘されたその部分は、急な訳ありでしてね。彼女への励ましの文章になりました。おかげで、ここ数日は、ぼく自身も、少しふっきれたものがあります。まだ、そのことでモヤモヤはあるのですが、夫婦の間は、一致団結、さあ、やるぞ! 

 子供報恩講ですね。よろしく。4月は、体調崩してご迷惑をかけましたから、今回は、ハリキッてますよ。このところ、どこにいっても、新しい人との出会いが続いていて、うれしいかぎり。そのことで、自分自身が変わっているのも、体験的に実感できるますね。人見知りが激しかったのですがね。人間も、人生も、けっこう変わるものですわ。ぼくは、ぼくなんですがね。不思議です。

| | コメント (0) | トラックバック (1)

ご法の威徳を味わう

 広島、九州の同人の皆さん、お参りくださった皆さん、ありがとうございました。

 いいご法縁でした。両法座とも、初めての方が多かった。とくに九州は、初めての方や、2、3度目に会う方が、半数ぐらいおられて、とても新鮮な集いでした。

 いま、博多から戻ってきました。新幹線の中でも、わざわざ指定をとって隣席に、S君が座り、いろいろと聞かせてもらいました。これまで2、3回お会いしただけでしたが、今回は、1時間ほどの時間でも、とても有り難く、意義ある時間をすごさせてもらいました。

 広島のHさん、ごそうさまでした。心のこもった手料理、しかも手作りの品ばかりておもてなしいただきました。おでんも、Oさんのおスシも、おいしかった! 息子さんにも、ご挨拶できてうれしかったです。次は、一緒に語りあいましょう。急に、泊めていただくことになったのに、大歓迎してくださり、最後は、宿泊された皆さんが、駅までお見送りくださいました。また、Hさんが、毎朝、アクセスしてもらっていることも分かって、素直にうれしかたっです。

 また、博多では、短い時間でしたが、「しゃぶしゃぶ」や刺身などのご馳走でもてなしをうけました。(店名なので、ここに書いていいと思うので書きます)。博多しゃぶしゃぶ、「あり多」、最高です。

 アハハハ、ご法座の中身が抜けてます。これは、また明日以降にゆっくり書きますから。でも、広島でも、博多でも、なんの縁もゆかりもない皆さんが、家族以上に温かく迎えてくださることを、ほんとうに勿体ないと思います。別にひとりで、のんびり、ビジネスホテルにでも泊まってもいいです。でも、こうして同人宅でご厄介になることが、ぼくの聞法でもある。ほんとう超豪華すぎる、乞食の身です。その度に思いますね。ぼくの力ではないなー。ご法のお徳で、あちらでも、こちらでも、「先生、先生」と、ぼくみたいなものまでも、喜んで受け入れてくださるのだと。もったいなく思います。そして、ご法の威徳を味わわせてもらう。ほんとうにこんな幸せものはいません。

 いや、今夜はちょっと喜びすぎだなー。新幹線の中でも、お念仏してきました。あることをきっかけに、ぼくなりに、少しふっきれた感じがあるんですね。

 華光大会では、ぜひ、この喜びを皆さんにも、惜しむことなくお分けしたいですね。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

一足早く高山では…。家内の姿勢には教えらるなー

  ぼくは、明日、広島から、九州の支部法座で、父も、東海支部。華光会館でも、日曜礼拝がある。ところが、法座案内にはないが、今日、一足早く法座に出かけて人がある。うちの家内である。しかも、三歳と六歳の子連れで、高山での、ママの集いと、日曜礼拝にお招きいただいた。

 とにかく燃えている。いろいろな場面で、自分を実現させることに、やりたいことに熱情を注いでいる。そのことで、家事や家庭生活の面で、ぶつかることはあるが、そのことはいまは置いておいて、「仏法広まれ」の熱意には、学ぶことが多い。

 毎月一度の「暮らしのカウンセリング」も、新しい人達が次々と参加されて、徐々に仏法にふれる機会を結んでおられる。もちろん、さきほどの広島の例ではないが、一足飛びに「ご法」にふれることは難しいので、まずは、その敷居を低くすることを念頭に、活動している。華光は特別ではないというのが、信念で、誰でも、どんな気持ちの方でも、まず参加してもらって、そこに触れてもらいたいというのである。そのために、華光会のホームページも刷新した。掲示板も誰もが入り易い形式で出発している。

 その点に関しては、相談を受けるが、彼女に一任している。なぜかというと、初めての方にお勧めするという点に関しては、いまの華光の中で一番、実績があるからだ。彼女自身、まったく仏法など聞いたことのないところから出発して、そこからまったく話を聞いたことのない両親や、友人や、それも大学、高校、中学、そして小学校の友人や、はたまた出産仲間、子供の幼稚園の親たちと、これぞと思う人には、その人の相談にのり、気持ちを語り合い、自分を開いて、ご法のすばらしさをお話しできる中になっている。そして、その中から、何名もの方が、同人になり、聞法されるようになり、支部活動を支えて活躍されている人まで出てきた。まだ潜在的にはかなりのご縁を結んでいるだろう。

 ここですばらしいと思うのは、「こんなことをいったら嫌われんじゃないか」とか、「人集めだけの新興宗教じゃない」とか、「法は、自然と集まるから」といった、へんな意味でのプライドや、言い訳がない点だ。自信をもって、ご法のすばらしさを伝えている。それも、ただ一方的に伝えるだけなはなく、相手の悩みを親身に聞き、お互いが信頼感をもち得た時だけに、自然な形でお勧めしている。それに、そのことが楽しそうなのが、一番だ。

 行動力もある。以前から希望していた、東京での華光会の講習会(講演会)を含む法座も、誰も企画できなかったのが、彼女が、計画をたてて、動きだした。それに合せて、ぼくに執筆をせよともハッパをかけられている。

 その前に、華光大会のチラシまで作製した。これを、ご近所のボストに入れるという。本号の華光誌に、大阪支部のEさんが、行事鐘を鳴らすことで近所からクレームがついたことを嘆いておられた。そこに、「どうぞ、鐘がなったらお参りください」とのチラシを入れたらどうかとの記事があった。さっそく、それを実現したのである。

 それを聞いたときは、ちょっとビックリというよりも、少し心配もあった。どの程度、成果があるのか。またどんなリスクがあるのかわからない。もちろん、これまでのポスターや新聞広告のように、まったく反応がない可能性も高い。しかし、まずは一人でも、ご縁を結んでもらわなければ、何も始まらないじゃないか。無明の世界にあって、華光はそれだけの内容のことをやっている。ただ願うだけで、ウジウジ心を穿鑿している暇があったら、また、簡単に無理と決めたり、リスクばかり数えていても仕方がない。「おもしろい」、「いい」と思ったことは、すぐに行動化する。だめなら、変更すればいい。それが彼女の姿勢だ。

 正直、慎重派のぼくには、少々かけている点でもある。たとえば、今回の高山にしても、ぼくなど、「子連れで迷惑かけんかなー」との心配の方が、先に立ってしまう。だから、新しいことを提案されると、ちょっと抵抗感がある。同人の皆さんからの、反応もだいたい分かるし、何かを変えるときの反応も、予想がつく。もちろん、そんな声にも、十分配慮せねばならないのは当然だ。しかし、いつも彼女は、華光の外のことも考えている。そんな、彼女の前向きな、熱意を、たとえぼく一人だけであっても応援してみたいと、いまは、思っている。

 いつも、夫婦ゲンカのネタばかり書いているので、今日は仲睦まじき姿を披露したんじゃないかなーいやいや、お粗末さまでした。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

初縁を大切にしたいなー

 明日は、広島支部法座。会場は、久しぶりにT家に戻ってきた。広島に実家がある東京の同人が、2名が里帰りと合せて参加してくださるそうだ。しかも、初めての方も、3名ほどいらっしゃる。そのうち、家内の中・高時代の親友のお母さんが参加してくださる予定だそうで、これはサプライズ! ちょっと法話も、予定を変更することにした。なるべく、初めての方にも寄り添う形でお話したい。もちろん、これまで聞法されていなかったり、普通にお寺参りをされている程度なら、一足飛びに「後生の一大事」の解決を聞くことは、なかなか難しい。かといっていつまでも、一般の方にはわからないからと、孤高を決め込んでいても、意味がない。一度でだめなら、二度。二度でだめなら、三度と、ご縁を結んでもらうことが大事なのだが、まず最初の一歩を躊躇していると、けっして、次の歩みは起こってこない。特に、広島のこのお宅で、こ法座をもたせてもらうようになってから、そのことをつくづく思う。華光の中だけで、分かっているものだけで、言葉を追い求めていも、結局は、安全なところでの、自己満足で終わってしまいがちだ。逆に、初めてきてくだっさた方に、お伝えしていくことで、自分の聞いてきたことの中身が問われていくる。同時に、少しずつでも、皆さんの変化が起こっているのも、事実だ。まだ、華光大会にまでお参りしようとする人はいないが、続けてこのお宅で法座がある時は、必ずお参りしてくださる方が二人、三人広がっている。いつの日かと、必ず真実を聞き開いてくださることを念願して、明日も、ご法座に出させてもらう。初めての方との出会いも、楽しみにしだ。

 そのあとは、久しぶりにH家に泊めていただく。翌日は、九州の博多に向かう。ここでも、同人がお友達を連れて参加してくださる。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

誠実に、しかし新たな工夫も盛り込んで

  今夜は、華光会の責任役員会だった。華光大会の総会を前に、決算、予算、そして、役員改選の件で、会議を開いた。

 華光会は、6年に一度、役員を改選を行っている。今年は、任期満了に伴う役員改選で、総会で承認をいただいく。代表役員まで、毎回、法務局に登記して、所轄にあたる京都府に届け出ている。

 役員は5名だが、役員報酬などは一切ない。

 今期は、この6年の間に、2人の責任役員が逝去されたので、2年前に2名の交代があった。それぞれに暗黙の役割があって、1名は、同人でありながら、自坊を持ち、対外的な立場からの人。以前は、故西光義敞先生が、たぶん創立以来にお引きかけくださっていた。いまは、M先生にお願いしている。いまもう1人は、地元で、いわば檀家総代的立場の方。故北口光三氏のあとは、故黒河達児氏だったが、あとは、地元のKさんにお願いした。もう1人は、遠方でも、経済的な面でご助力や、ご相談のできる方にお願いしている。あとは、小生と、代表役員を勤める父であるが、これも、身内が過半数にならないように配慮している。

 今後の6年間は、高齢と体調の理由から、長年、さまざまな形でご尽力くださった、Oさんが勇退されることになった。親分肌の女性で、信仰の面もピカ一。長年、父の北海道布教を支えてくださった功労者である。ちょっとこんなタイプの方は、いまの華光には、見当たらない。(例外は、この方のお嬢さんでしょうかー)。今夜は、この方の後任の候補者を相談した。

 いま華光は、ちょうどぼくの世代を中心に、40代を中心に人材がそろっている。これは、有り難いことだ。だた、ちょっと30代が弱いが、20代の仏青世代も、決起盛ん。将来が楽しみだ。実務で汗を欠くのは、壮年や若手の仕事である。運営委員などは若手がドンドン登用されていくし、実務的な仕事は仏青の人達がハリキッてくださっている。

 とはいっても、今回の修繕募金にしても、再建工事にしても、寄付の時に、力になってくださるのは、60代以上のお同行さんである。この点でけは、40歳以下では、相当におぼつかない。会館には、ご自身が参りできそうにない、または何十年も、京都まではお出でになれなくても、次代のご法の相続を願って、ご喜捨くださるのてある。その意味でも、役員や、会計監査役は、ある程度、同人から信頼される方がよい。ともすれば、将来ある若手だけを見て、変化を求めてそこを喜びがちで、年配の先輩方を軽んじてしまう恐れもある。しかし、これまでの功労者のおかげで、今日があることを忘れてはならない。その意味でも、役員をお願いした人達もおられるのだが、残念ながら、体調面、年齢などから無理な場合も多い。華光会は、人材面でも過渡期を迎えているようだ。

 今夜は、一応、新たな人選の相談がまとまり、内諾を得た上で、華光大会の総会にて、同人の皆様にご承認をいただく手筈になる。華光会は、同人の皆様の総意で運営されている。お金の集め方にしても、また、その使い道にしても、会員には、すべてオープンになっている。当然、潤沢な資金があるわけではないが、皆様のご喜捨を無駄にせめように、節約に努めて今日まで来ている。今日も、MAUN.さんから、決算と、予算の説明があったが、貧乏症の集いで、決して、世間的な発展とは無縁である。しかし、「真実のみのり」を旗印にかかげて、誠実に今日まで続いてきた。法の内容においても、その運営面においても、両者が共に純粋であるというある種、奇跡的な集いであることを、誇りしながら、、今日まで脈々と継続されてきたのだ。今後も、この伝統に甘えることなく、新たなアイディアや工夫をしながらも、この精神は受け継がれていくことであろう。

 華光同人の皆さん、11月5日の、総会に出席してね。一番有り難い法座になることがあります。特に、お金の話がでるとね。一番大事なものが絡むと、きれいごとですみませんから。それだけに有り難いですね。

追記:Tねこさん、大阪凡夫さん、コメントありがとう。Tねこさんに発言に触発されて、少し発展させていますので、またぼくのコンントも読んでください。

どんべいさんも、いつもお世話になています。このエントリーは敬遠されるかなーと思っていたんだけどね。うれしいてす。今夜は本文にも登場させてしまいました

| | コメント (0) | トラックバック (0)

いま、ここで、経験を生きる

 真宗カウンセリング研究会の月例会があった。今年から、ロージャズ全集の「人間関係論」から、「人間の問題に関するカウンセリングによる一考察」を読み出した。なかなか味わい深い章で、じっくりかかわりすぎで、なかなか前に進まないが、それでも、脱線することもなく、本文に添いながら、それぞれの経験に則した読みが展開されていて、毎月、楽しみしている。何分2時間しかないので、アッという間に済んでしまう。

 今回は、担当者、急用で欠席となったので、ぼくが代理で司会した。「セラピーの過程」で、どのような変化の過程と、人格の発達が起こるのか、その要素は? について述べられている章の一部。

 本来は、個人、個人で独自で、記述が不可能と思われていたセラピィーの過程を:、膨大な経験に基づき、仮説を立て、科学的に検証可能な形で、またそれが、誰であっても、ここに示されたような態度で人と接する時に、そのような変化が起こり得ることを、一般化、普遍化されたのが、ロージャズさんの最大の功績のひとつであり、素晴らしさである。

 ここではその変化の過程を

 1)セラピスト(カウンセラーといっていいでしょう)が、受容し、理解してくれていることを、少しでもクライエントが、知覚した時、彼の経験上の矛盾をいくつか自由に探ってみたくなる。

 2)クライエントがこれまで拒否してきた自己の生活の情緒的な側面を、十分に経験し、意識してくるということである。

 3)カウンセラーが、クライエントを受容しているということを、クライエントが経験することである。

 このような無条件な肯定的配慮で受容され、無条件に尊重されていることを経験することによって、<1>自分自身の自己概念の防衛的な構造をゆるめるようになり、あまりにも脅威と感じていた態度に気づき、それを十分に経験することができるようになる。<2>カウンセラーの自分に対する態度を自分のものとして、それを自己概念に組み入れ、自己を正しく評価し、価値ある人間として、自分を尊重できるようになってくる。

 4)そして、個人の自己の対する見方が、持続的に変化していくということである。つまり、自分自身で、これまで非常に恐ろしいと思っていた(自分自身の)いろいろな感情を、十分に受容し、かつ経験することができるようになる。このような経験により、今までの自己概念が組み換えられ、次第に新た強い経験を取り入れるようになるように、再構築される。つまり、新しい自己が、セラピーの経験することによって、見いだされる。自己は経験におしつけられたような構造のようなものではなく、経験の中に見いだされ、経験によって定義づけられたということを認識するようになるのである。

という3)と4)を読んだ。いや、これだけなら、ちょっと、小難しいだけだなー。

 要は、新しい自己になる、自己を発見する過程であるが、この「新しい」は、むしろ、「本来」の自己になっていくといってもいいだろう。、自己概念は、「これが自分だ」と思っている自分。それは、だいたいにおいて、これまでのさまざまな外部乃至内部から影響によって、形づけられた理想像であり、「いま、ここで」経験されている自己とは異なっている。そのために、さまざまな形で抑えたり、歪めたり、誤魔化したりして、ますます歪んだ自画像、自己概念を形成することになり、その矛盾で悩み、苦しむことになる。過去に囚われたり、未来に不安を感じたり、他者の目(世間体)をばかり気にしたり、自尊意識も持てず、「いま、ここの、私自身」を生きていけない。

 ところが、自己一致したカウンセラーに出会い、どのような経験も、どのような私も(矛盾しようが、弱かろうが、異常な感情や、悪意ある態度も、恐怖も、絶望も、否定的な感情も)であっても、みな同じように、無条件の肯定的配慮(なんでも、「ハイハイ」といいなりになることではない。この「配慮」という言葉に、意味があると、ぼくはみている)をもって、受容され、無条件に尊重されているということが、クライエント自身も、十分に味わえたとき、これまで受け入れらずに、歪めたり、無視したり、否定したり、もしく無意識に隠していた自分自身の「恐ろしかった」に一面に、そのために、苦しめられ、その矛盾に悩まされていくのだが、初めてありのままに出会い、自分の一部として尊重し、受容されていく。そして、「いま、ここの、私自身」を生きていくのである。

 てなことを、自分自身の経験と重ねて考えておりました。具体的な、自分自身の経験については、研究会では少し話させてもらいましたが、それはまた別の機会にね。(それにしてだ。「別の機会」て書くのが多いな。映画のことも、本のことも、法座のことも、まだまだ書きたいことばかり。さてさて)

| | コメント (1) | トラックバック (1)

修繕工事いよいよ大詰め

 華光会館の修繕工事も、期間が迫ってきました。

 今日は、施主点検ということで、広島から設計・管理のMさんもお出でくださり、業者を交えて打ち合わせと、今後の工事の過程(ここはやる、やらない。追加料金などですね)について、かなり細かく点検しました。これで、何度目の打ち合わせでしょうか。正直、ここまで細かく打ち合わせをするとは思ってなかったなー。

 点検なので、ヘルメットをかぶって屋上から見て回りました。ベランダも塗装され(光沢のあるグレーに変身。手すりも焦げ茶になります)て、乾燥中で使えないので、屋上から足場におりて、外壁の点検に回りました。けっこう足元の間が開いていたり、狭いところもあり、足元だけみていると、今度は足組の上のパイプで頭打ちそうになり、少々スリルありました。かなり丁寧に作業してもらっています。専門家のMさんも、細かくチャックを入れてくださいました。外壁は、これまでは、やや緑も入っていましたが、いまより少々黄土が強くなりそうです。1年もすると落ち着いてくるでしょう。いまは塗料が臭くて、匂いが籠もるので、生活するのが、ちょっとつらいです。

 2階にも、とても立派なシンク搬入されました。業務用というので、機能的なだけで、見た目を心配していましたが、これがとても立派。シンクが、かなり深いのが気になりましたが、これまでの不満は解消されるでしょう。打ち合わせ期間中ケンケンガクガクしていた、足元の目隠しの扉も、満場一致で「不要」と決定。15万円近く浮きました。もっとも、かなりこまかな点で追加工事があるので、全体として、多少のプラスはあたます。

 女子便器も洋式に変身。これももう一息。流し、トイレ共に、予定どおりですが、ギリギリになりそうです。外壁も、丁寧に3度塗りにしたり、こまかな点の手直しなどがあって、これまでの工程の余裕はなくなっています。10月30日までかかりそうです。31日は予備日ということでしょう。もう1度、足場を外す直前に、施主点検があります。もう一息ですね。

 写真などは、MAUN.さんのブログにも紹介されるでしょう。そのMAUN.さん。修繕の打ち合わせのあとも、大詰めの決算書の作製を仕上げてくださり、会計事務所に送付くださいました。まずは、お疲れさまでした。

| | コメント (1) | トラックバック (1)

聞き間違うのが、私の自性。だから聞かせていただくばかり

 東京法座のご法話は、「聞く」ということを中心にしました。

 ほんとうは、1席分の予定でしたが、そこから膨らませて、3座お話しました。もう1座は、「極難信」をテーマにしました。特に「聞く」法話は、用意した教案以上に、その場の雰囲気で、その時出てきたことを話しました。実は、あまり教案を考えなくても、ご法話のネタに困らないだけの、蓄積ができてきました。おかげさます。でも、これはよくないとも思っています。というのは、あれも、これもとあっちこっちに話題が出てくるので、時間が長くなる。ついつい、同じような話題になる。特に、年齢を重ねていくとと、サアッと切り上げられずに、ダラダラとくどくなる予感がしています。第一、これを繰り返して楽をすると、怠け癖がつきますらかね。せっかく、貴重な、皆さんの時間をいただくわけですから、しっかりと準備をしていきたいと思っています。それは、法話の直接的な事前準備だけでなく、日頃の生活から、時事ネタにしても、映画を観たり、本を読んだりすることも、結局は、ご法座ために勉強しているつもりです。その意味では、新鮮な話題には事欠かないだけのことはしているとの自負は、それなりにあります。もう少し、仏書を読む必要はあるでしょうがね。専門を怠っています。

 ちょっと、話題逸れました。

 一方でそのときの雰囲気も大事にしたい気もします。特に、支部法座のように、3、4席と法座が続くと、座談にするのか、法話にするのか、法話はどこに焦点をあてたらいいのかなどがかなり、絞られる気がします。

 今回の東京法座なら、毎回、毎回、熱心にご聴聞をされながら、山のような資料と、お聖教のプリントと、メモと、録音機が手放さず、「信心獲得」「後生の一大事」などたてまえではおっしゃていながら、本心は、「一度で無理なので」と、宿善を積むために、教学に勤しみ、試験のための聞法し、批判をしながらある会との二股をかけておられることが発覚した某同行の姿を通じて、ずいぶん、聞かせてもらった気がします。(東京の方もそうだと思います)。後半、この人を意識して、ご法話した気もします。懇親会で、「何も聞いていないじゃないか」と、彼に迫っていかれた同人の言葉も有り難かったですね。

  「聞く」-何を、どのように聞くのか。いくら聞く、聞くといっても、「何を」を間違い、「どうのように」を違えてると、百座、千座、重ねても、意味はありません。ただ、黙って、なんでも感でも、聞けばいいというわけではないのです。

 それで、わからないことは、頭を垂れて教えていただく。そこからすべて始まる。讃嘆談合-仏様のお徳を讃える、喜びが拡がる。同時に、聞き間違いを、聞き間違いと聞かせてもらえる、そのことを知らせてもらえる知識・同行で出会えた幸せ。「勝他のため、名聞のため、利養のため」にしか、聞法していない、仏法を利用する自力そのものが私。聞く上での、アラヤ、マナ識、意識の三重の歪みと、それでも降り注ぐ聞薫習(くんじゅん)のお育てなどなど。要は、「聞き間違うのが、私の自性」。だからこそ、「聞かせていただくしかない」ということでしょう。その要を示していただいた。そんな法友に出会わせいただいたことは、何者にも換えがたい幸せです。

SRV250さんsaishoさん>>コメントありがとう。東京支部ではお世話になりました。

SRV250さん、あいからずバイクネタですか。ハンドル変わったので、最初わかりませんでした。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

華光の法座

  華光の法座にはいろいろな種類がある。

 子供大会や仏青大会、壮年の集いのように、年齢で対象を絞った法座がある。

 内容でも、聖典講座や講習会のように、先生からの法話が中心の法座。真宗法座の集いのように、座談分級(ぶんきゅう=話し合い法座)を中心にしたもの。華光大会などは、ちょっどその間で、お座ごとに、法話があり、その後、座談が持たれる。聞法旅行のように旅をしながら、夜は座談分級を重ねる法座もある。

 その座談や分級も、事前にグループ分けが決めてある法座(壮年、聞法)もあれば、その都度、好きな先生のところにはいるやり方(大会、永代経、報恩講)。さらにグループ分けから相談していく法座(真宗法座など)まである。

 一方、、宿泊の支部法座となると、先生1人で、何回か法話をして、全体で座談をすることになるので、どうしても、先生を中心にした集いになりがちである。それでも、支部法座は支部法座で、それぞれの地域や集まりで、かなり特色がある。先生におまかせにしないで、自分たちで創意工夫しようとする人が一人でもいると、何かと衝突やトラブルもおこりやすいけれど、それだけ、エネルギーが溢れて、みんなの力となっていくことを、目の当たりにするので、けっこう面白い。ただ、最近は、ちょっと、どの支部も「大人しめ」の感は否めないし、いい意味では、スッキリしているけれど、ちょい破天荒なところがなくなった。抑えすぎたのだろうかなー。

 それぞれに人数や形式の違いがあり、意味あいも異なり、なかなかバラエティーに富んでいる。これも一重に、この私が、しっかりと聞法するためのものに、ほかならないのだから、この千載一遇のチャンスを逃す手はない。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

東京から帰りました。

 東京支部法座、終わって、少し前に帰って来ました。

 ありがとうごさいました。

 京都、大阪、三重とゲストが多く、それにまったく初めての方も3名おられたり、仏青の若い人に、日高支部出身の老女の念仏者も加わったりと、久しぶりの人数の多い東京支部法座になりました。もう少し活気がほしい気もしますが、有り難かったですね。

 ここに書くネタには事欠きませんが、いまは、疲れました。懇親会盛り上がって、おそくなりますね。法話も4回もしてしまいました。

 最後は、いつものように「デニら」ないで、静かな庭のあるレストランで、世話人の会食でした。

 では、では。明日は、昭和天皇の映画「太陽」を観に行きます。楽しみにしています。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

東京法座の教案

 8月に続いて、宿泊の東京支部法座だ。

 ここは、法話は、2座の時と、3座の時がある。だいたい、1回は教義的なことも含めて、少し長めで、骨のある話を考えている。前回なら、「二種法身」がそうだった。その場合は、座談の時間を考えて、法話は2回にしている。今回は、3回になるだろう。

 東京同人からリクエストのあった「歎異抄11章」を、すこし勉強しかけたけれど、今回はパス。初参加者が多いという情報を得て、同じ「歎異抄」でも、もう少し取っつき易い章がいいと思った。東京では、2章、1章、13章と済んでいるので、4章を取り上げることにした。 

 もうひとつは、「聴聞の要」というか「説聴の方規」について。「ご聴聞」といっても、「何を」「どう」聞くのか。「何を」については、以前の法座で、本願の三心、仏願の生起本末を聞くことを取り上げた。今回は、「どう」聞くかを問題にしてみたい。これを2回にわけてもいいし、初めての方の反応次第で、「何を」も詳しく話してみてもいい。 

 あとは、「現世利益」和讃と、「難信」の教案を考えているが、たぶん、「難信」にするだろう。当初メーンに予定していた「修行の五段階」は、4年前の東京法座でテーマにしていた。うっかり記録から抜けていたことが、夜になって分かった。その上、ほかの教案のプリントがうまく見つからず、子供は夜泣きするはで、少し焦った。もっとも、同じテーマでも、みんな「初めて」のごとく顔で聞かれている。話し手が覚えていないのだもの。ましてや聞き手おやであるが…。それでも、やっぱりね。今回は、ちょっと準備は万全とはいえないけれど、とりあえず教案は揃ったので、新幹線の中で調べよう。もう少しだけやって寝ます。

追伸:「法座で、育ち合う(2)」に、MAUN.さん、稜季の父ちゃんさんから、滋味豊かなコメントが届きました。こちらも、じっくり味わってみてね。雀斑さんも、いつもありがとう。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

法座で、育ち合う(2)~仏青大会で気にかかったこと~

 ところで、今回の仏青大会で気にかかったのは、(ぼくのグループでの)みんなのおとなしさだ。平凡な表現を使うと、若さがない。表明的な褒め合いや、お調子笑いで、なんとなく過ごすのではなくて、もう一歩も、二歩も踏み出してほしかった。

 みんなにまかせて、ぼくが黙っていると、長い沈黙が続く。すこし促すと、少し動きだすが、「いま話したくない」とか「ひりとりいたいとか」とか、いかに「話すことがない」かの言い訳が続く。そして、すぐに自分の極小さな内的世界に入っていく。もちろん、そんな人がいてもいい。ただ、初参加の人もいれば、ご法を喜んでいると自称している人もいるのだから、もっと活発な動きが欲しかったのだ。

 別に話したくないときもあるよ。話すことがないときも当然ある。でも、それが3日間もつづくと、面白くない。第一、そんな自分を責めても何も生れないし、発奮させようとしてもなかなか難しい。それより目の前にいる人に関わろうとする。自分を語ろうとする。何かを伝えようとするのだ。うまく話せないかもしれないし、何を話したらいいいのかもわからない。でも、たとえ言葉にならなくても、まずは、「いま、ここに、ぼくはいるよ。目の前のあなたに関心があるよ。」という、そんな態度、姿勢が、基本じゃないのかな。もし、「聞きたい」という人がいるのなら、誰かからの働きを待っていないで、「聞かせてください」と話し手に伝えていくことも必要だよね。

 別に、座談の時に、失敗してもいい。恥をかいてもいい。何も恐れるはことはないのだ。むしろ、みんなに与えられた貴重な時間を大切にする姿勢こそが、自分と、そこにいるみんなをも大事にし、またご法を大切にすることにつながっていくのではないだろうか。

 もし、今回、どう動いていいのかよくわらかない三日間を過ごしたならば、それはそれで貴重な体験だ。次は、その体験がバネになればと願っている。

| | コメント (3) | トラックバック (0)

法座で、育ち合う(1)~仏青大会で気にかかったこと~

 仏青大会は、2泊3日、手頃な人数(20名~30名弱)で、じっくりと小人数の座談を中心に行う。しかも、20代、30代の若い人達が、自分たちで法座を運営していく。そのために、華光会館という場所が提供され、声をかけたら応じてくださる先生方が待機し、先輩のおかげでお金の心配もなく、常連も多いいので、ある程度の人数も集まってくる。いわば、一から準備をしなくても、その土台は出来上がっているのだ。パーツはそろっている。あとはどのような創意・工夫をし、それを組み立てていくのであるが、どう組み立てるかは、まかせられているというのだから、ずいぶんと恵まれている。

 10年前までは、仏青や子供会を、ぼくひとりでお世話していた時期がある。正確にいうと、ひとりでは出来ないのだから、皆さんにも協力をお願いしたが、所詮、お手伝い程度のかかわりだった。大会があれば、案内状作製し、発送し、名簿や名札をつくり、食事の手配に、参加者への呼びかけ、当日も進行に、会計にと、ひとりでやっていた。日頃の運営も、会員管理も、会計も、書類管理も、会報もひとりでやった。

 なぜ、ひとりでやっていたのか。要は、ぼく自身が幼かったのだろう。何かを頼むと、いやな顔をされたり、いい加減な仕事だったり、忘れられたりと、腹が立つことが多かった。忙しくても、精神衛生上いいのかなーと思った。まあ、ひとりで出来る範囲の集いだったし、そのことでぼく自身も、勉強させてもらった。ノウハウが身につくと、大変度数は軽減される。案内状も工夫して出せるしね。

 でも、それではほんとうに自分のためにも、みんなのためにもならないことを気づかされた。一方的に教えてもらい、お客さんで来ているだけでは、所詮、人ごとの仏法になる。第一、この先、ぼく自身が仏青の年齢でなくなるのだから。それからの10年は、ほんとうに大変だった。仏青が絡むだけで、カッカしていた時期もあった。ぼくから見たら、ほんとうに簡単なことで、また本人たちも、当初は、みんなも気楽に引き受けてくれた。ところが、それがつまずくのだ。続かない。たとえば、「毎月、法座案内に載せるので、前月の20日までに、担当とテーマを知らせること」という約束すら、2ケ月すると出来なくる。書類を順番にファイルしていく役。例会に来たら記録をつける役。会計を付ける役と、それぞれに役割を振り、マニュアルも相談して作っても、2、3ケ月したら、忘れられていった。そのことの繰り返し。ほめたり、おだてたり、おこったり、愛想を尽かしたりを繰り返して、やっとここまで来た。

 このことは、法座自体でも、座談会でも同じことだ。先生だけが孤軍奮闘で目立ち、「すごい。有り難い」といわれているだけでは、まだみんなはお客様だ。いかに、みんなが自分の問題として、法座でかかわっていくのか。いかに、共に育ち合う人間関係を築いていくのかが、問われいる。

 先生だけが、頑張って、立派な答えを提供するだけなら、常に依存関係に留まって、同行はみんな単なる聴衆。もっとも、その方が楽なときもある。頼られる側にしても、みんなに頼れることで、それが自身の生きがいになったり、自分の自尊意識の高揚に利用したりしがちであるから、ここのところは、かなり難しい。

(2)へつづく

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3歳の誕生日

 今日は、二女の3歳の誕生日。

 夜は、おじいちゃん、おばあちゃんも交えて、家族中で、お祝いに出かけた。京都の元田中にある、自然食のお店「キッチン・ハリーナ」。(仏青大会でもお弁当とったよ)。家族そろって、ごちそうをいただいた。よくあることだけれど、この手のお店で、食前と食後の言葉を言っていたら、お店の人がいたく感心しておられたが、そんなところに興味をもってくださることもうれしい。

 今度の仏青大会でも、子供大会出身者の早い成長に、目を丸くした。この前まで、子供だったのに、いつの間にか、大学生となり、社会人になっていかれる。アレヨ、アレヨとの急成長に、驚くばかりだ。それに比べると、わが子の成長の、なんと時間がかかるものか。3歳といっても、まだまだ赤ちゃん。2歳半ぐらいから、「自我」が芽生えてきて、なんでもかんでも、「じぶんで、じぶんで」と、出来ないことをやりたがり、願いどおりならないと号泣し、叫びながら主張しまくる。分別がついていないだけに、目も離せないし、一番、手がかかる。一方で、しぐさ、言葉、そして存在そのものが、無償に愛らししく、可愛い盛りでもある。いきおい、(世間にくらべるとかなりラフだが)子供を中心にした生活になる。

 3年前、母も、この子も、いのちがけでこの世の生を受けてきた。生まれ落ち、へその緒を切らせてもらい、母親の次に抱かせてもらったときに、その重さに涙が溢れてきた。この子には、迷いのいのちを一歩出る、六道、迷いを離れることを願って、それに由来する名前をつけさせてもらった。そしてそこから、さまざまな慈愛をいただき、数限りないいのちを奪い、おかげをいただいて、3年もの間、親子共々、無事にいのちをつながせてもらってきた。それにしても、ぼくはその間も、相変わらず、文句や愚痴ばかりでは、お粗末すぎる。子供の成長もなかなかだけれども、ぼくの成長はどうだかー。これも、とてつもなく時間のかかる、慈愛が注がれ、ご恩の注がれている話だ。

| | コメント (2) | トラックバック (0)

BBBのライブ

で、夜は、京都駅八条口にある「コーダル・オン」というお店で、JAZZのライブ聞きに行きました。客、最初4名でしたが、9名ほどになりましたが、小さな小さなスペースでの、ピアノレスのテナートリオで、ドラムスがリーダー。ベニー・ゴルソンのブルース・マーチからスタートして、センチメンタルー・ジャーニーとか、枯葉、ロリンズや、コルトレーンの有名曲に、オリジナルが混じっていました。わりと正統で、聞きやすくて楽しかったです。テナーの引用とかも面白かったしね。世代的にも、同級生だったし、狭い空間でのライブ迫力あるわ。今回は、無理だったMANU.さん、次回はご一緒しましょう。このあと、一緒に行ったKさんに、京都駅七条の裏通りの小さな路地を入った、お店に連れて行ってもらいました。目の前で切りわけてもらった、生ハムが超美味。お酒も美味かったです。夕方は、疲れからか、腹痛の下痢になったりしたけど、かなり飲みましたね。でも、帰って来てブログる元気ありました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

自力整体~「カポーティー」~ライブ!

 仏青大会終わりました。思いはいろいろあります。若い人からエネルギーをもらったといいたいところですが、20代の若い人が多いのに、逆にぼくのエネルギーを吸い取られる思いがして、その点ではがっかり(織り込み済だけれどね)。これはまた明日にでも。もっとも、仏青の人は、「先生のブログ?見たことないな」っていう人、多かったけどね。

 で、今日(もう昨日か)は、予定どおり久しぶりの完全に近い(97%)オフの日。3%は、仕事しました。

 朝から、自力整体に行って、まず疲れた体をほぐしました。

 昼は、京都シネマへ映画へ。「カポーティ」を観ました。これ、期待どおりいい出来でした。小説『冷血』を材料に、原作者の葛藤を描いたもので、アカデミー賞主要部門にノミネートされて、フィリップ・シーモア・ホフマンが、今年の主演男優賞取りました。彼は、PTA作品で、個性的で、典型的な白人デブをやったり、エキセントリック役やってますから、そのイメージ強かったし、確かに上手いのは知っていましたが、メジャーの賞とは無縁な人だと思っていましたので、彼の受賞は、かなり良心的だとは感じました。これで今年のアカデミー賞主要部門の作品はすべて観ました。これも後日ね。

 夜は、京都駅八条口にある「コーダル・オン」というお店で、JAZZのライブへ。修繕工事は、内部が開始。洗面所も、トイレも取り外されました。今日は、かなりの騒音。外は、小雨になってます。風呂は入って寝ます。おやすみなさい。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

仏青大会初日

 仏青大会始まりました。

 いま、懇親会でも盛り上がってます。

 子供大会出身で、次々と若い(大学生を中心に)人が増えて、新鮮です。新しい人、初めての人も数名あります。着実に世代交代は進んでいる。新人だった人が、大学生になり、大学院生になり、そして社会人になっている。月日の早さを痛感せられます。

 法話は、「凡夫が仏になる」のテーマでした。阿弥陀様の摂取不捨のお働きは、同時に、迷いの泥凡夫の私を信じきって、待ってくださっているんですね。待って、待って、待って、十劫も待たせとうしなんです。勿体ないなー。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

内部の工事は、仏青大会明け

● 修繕工事は、雨で、2日連続のお休み。

 外壁は休みだったが、2階のトイレと炊事場の件は、いよいよ仏青大会が終わった翌朝から、急ぎの工事に入る。その打ち合わせが、連日、急に入ってくる。今日も、今後のスケジュールと、「流し」の件でお願いがあった。いま、頭を悩ませているのが、2階の流しの問題だ。外注品の発注となった。問題は、これが業務用なので、機能的だが、家具としての一面は削がれ、「使いやすいが、見た目は殺風景」になるという点である。限られた予算、限られた時間の中で、そこをどう折り合いあいをつけていくのか。大手の業者にしては、あまりに細かなことで、逆に融通が効かない点もあるようだが、せっかく皆さんの浄財を募ったものだ。皆さんの納得いく結果になればと願って、相談している。

●● 今日は、延び延びになっていた、「ほとけの子供大会」のテープ編集をおこなった。あらためて、若い人達の法話を聞き、ぼくの全体会での話を聞いた。子供さんだけでなく、皆さんにもお勧めしたい内容になっている。DVDと合せて、ぜひご利用いただきたい。また、子供たちの感想を集めた「はすち」も、作製してもらった。お世話のS先生ありがとう。これも、来週の半ばに、総会の委任状など共に、発送する手筈で、進めてもらっている。

●●● 仏青大会の法話は、「凡夫が仏になる」に決めた。これにふさわしいメンバーかどうかはわからない。顔ぶれをみて、皆に合せることも大事だけれど、ちょっと興味が異なり、少し難しい話を聞いてもらうことも意味があるんじゃないかと思っている。まったく、難しい話ではないですが…。

 なんやかんやと、今日も、事務雑用で1日が過ぎていった。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

この妙に、淡々とした心境はなに?

 明日から、仏青大会。

 以前は、案内段階の準備から、前日、当日と、ほぼひとりでやっていた。それが仏青のメンバーが主体的に動くようになって、もう何年目かになる。ただ、今年は会長や役員の交代があったので、何かと相談や指導事が増えている。後進への引き継ぎが、今後の課題のひとつにあるが、長い目でみれば、すっかりみんなの仏青になってきている。

 おかげで、準備段階で「カッカ」することもなくなった。それに、ぼく自身も、仏青の年齢ではとうになくなった。その意味で、40という区切りは、けっこう意味がある。まだ40歳直後は、そうでもなかったが、それを数年すぎると、生活実感や体力面を考えても、もう青年とはほど遠くなった。ぼく自身の関心や興味も変化しているし、若い人達といっても、以前ほどワクワク感が、減少している。別に、自身の老いを感じて寂しいわけでもないし、「いまの若者は…」という気もないのだか、ただ、最近の仏青は、物分かりがよい、大人しいが増えた気がする。それに、妙に「気を遣う」人も、増えているのではないか。ぼく自身も、ご法の上でのアプローチに、いま一つ物足りなさ、ノリの悪さを感じなくもない。

 まあ、そんなこんなで、あまりに申し訳ないのだが、なんの気負いもなく、なんの気概もなく、仏青大会を迎えようとしている。

 

| | コメント (0) | トラックバック (0)

十余ケ国の境を越えて…ご示談

 長いメールを見たのは、教行寺法座から戻った翌日だった。

 ご家庭の都合で、5日間の間での急なご示談の依頼。7月の「壮年の集い」からの心境が事細かに書かれている。もう一息かなーとも思ったけれど、「文中にあった、『いまの、自分の位置づけや、今後の指針のため』なら、わざわさお越しにならなくても、今月の法座でもいいでしょう。もし、いま、ここでお聞きになるのなら」と、返事したら、さっそく飛び込んでこられた。週末は仏青大会があるが、華光誌の発送もちょうど済んだところなので、引き受けることにした。

 十余ケ国の境を越えて、「往生極楽の道」を尋ねておいでになる。もちろん、現代は、新幹線の旅だけれども、ご本人の体調や、ご家庭の事情を知ると頭が下がる。(仏様の願力にほかならないのだけれどね。)。

 もちろん、詳しいやりとりには触れるわけにはいかないが、お話を聞いた気づいた点をまとめると次の3点のところに引っ掛かりを感じた。

 1)今生事と、後生事との廃立(水際)

 2)自力と、他力の廃立(水際)

 3)自分の気持ちの変化ではなく、如来様のこころ、気持ちを聞く、いただく。

2)と、3)は、ある種、ひとつのことではあるが、あえて、分けてお伝えした。自分のこころを知ることは大切である。そこを外して聞法はない。しかし、自分の心の変化や、善し悪しだけに囚われていても、一向に聞法にはならない。そこにかけられた、如来様のおこころに耳を傾けていく。それには、自分のこころが役に立たない、自力無効であることに、見切りがつかねば、手放しに聞くことは出来ない。もっとも、誰もが、「自分では役に立たない。どうしょうもないと分かっています」とおっしゃる。ここが最難関。ほんとうに見切りがついていれば、仰ぐしかない。自然と入ってきてくださるはずである。そうならないのは、実は、自分で、自分に見切りをつけているだけだ。自力では、自力を捨てられない。仏様にキッパリ切っていただく。そのキッパリ切っていただくときが、即、摂取の光明に収め取られるときにほかならない。

 思いついて、華光誌の「連続無窮のお働き」を二人で、交互に輪読した。時々、ご心境を聞く。だいたいの様子や言葉で、様子が分かるものだ。まだ、自分の思いだけでお出でになっている。ぼくたちにとそれしかないのだが、その思いになるには、どれだけのご恩徳があり、如来様のおいのちがふりそそいでいるのかを聞いていただきたかった。少しこころが動かされて、一心にお念仏された。静かに、リズミカルにお念仏された。両手に力が入っている。途中で、ぼくは、偈文をお勤めした。自力のお葬式が済めばいいがという思いだった。まだまだ、続きそうだったが、45分近くなったところで、声をかけた。(ご本人は、もっと短いと思われていたようだが)。涙と鼻水をぬぐわれた。少しお茶を飲みながら、事務所で、お話を伺った。

 ご自分の心境、気持ちだけを話された。極難信のご法。「信じることもなお難し」である。

 でも、それでよかったのだ。ぼくも、この人になにかを強く与える気持ちは、さらさらなかった。ご本人は、不満だろうが、空しく帰られて、よかったのだと。なぜなら、仏法には、何一つ無駄なことはないからである。

 不満があるのは、自分の心境のほうなのだ。ぼくたちは、自分でなんでもわかりたい、コントロールしたいと願っている。だから、しっかり法話が聞けたり、理解が深まったり、気づきがあったりすると、心境が進んだ気になる。逆に、惚けていたり、聞く気にならなかったり、聞いてもすべて忘れいたり(この方も、壮年の集いの法話が何も入っていない。覚えていない。罪悪感も以前に比べてないと嘆かれていた。でも当たり前。法話した本人が、「なにを話したっけ」というのだから)すると、心境が後退したと思い、叱咤したくなる。実は、それが大きな自惚れ、自力を頼んでいる姿だとは、気がつかない。自分の器に納まる仏法なら、聞く必要はない。自分の器が、自力の聴聞が、いかに頼りのないかを知らせてもらたのだから、ほんとうは、そこからもう飛躍するチャンスなのであるが、誰もが、もう一度、建て直そうする。しっかりしようとする。ハッキリさせようと力む。

 そうではない。ほんとうは、そのときにこそ、仏様のご苦労に、こころを向けさせてもらえる、千載一遇のチャンスなのである。そのおこころに撃たれれば、、わが口を通して、このからだ中に、「南無阿弥陀仏」が響きわたるのだ。

| | コメント (1) | トラックバック (0)

本質は細部に表れる~今夜の夫婦ゲンカ

 いつも些細なことから始まる。

 「本質は細部に表れる…」。新聞の切り抜きを整理していて、出会った言葉。

 ほんとうにきっかけは、笑うぐらい、小さな、小さなことだ。しかし、その奥には、底知れぬ深淵が拡がっていることもある。

 そう、きっかけは、子供の爪切りだった。昨晩も約束し、今日も、先生にも注意を受けたというのに、そのままだった。家内に、注意しながら、子供の爪を切る。彼女が言う。「子育ては、二人の責任。そのときに、気がついたほうが、手伝ってもいいんじゃないの」。まあ、そんな意味だった。まったく、その通りだ。でも、この言葉に、ぼくには、溜まっていた気持ちが出る。このところ感じている彼女との距離感、違和感だ。当然、地下深く、溜まっていたマグマは、きっかけひとつで、表出し、時に爆発する。表出しながらも、自暴的になって、すぐに閉じてしまう、ぼくもあるのだけど。その点を指摘されると、まあ、それもその通り。持ち直して、話を聞ければ、彼女の言い分も、わからないわけではない。それでも、やはり、ぼくには、ぼくの言い分の正当性があり、相手に求める要求があり、理想がある。

 ぶつかりあう。感情が飛び出す。相手に批判的に接する。毎日、毎日の利害が絡むと、なかなか穏やかに話し合うことは難しい。その感情の部分、特に否定的感情の部分は、外でしっかり吐き出して、充分、処理して、(友人でも、プロのカウンセリングでもいいから聞いてもらって)夫婦の間には持ち込むな、極論するとそうなる。「私に甘えるな」、という強烈なメッセージ。フェ~、き、き、きびしい。一理はあるので、それなりに努力しているけれどね。なにか寂しいくもある。確かに、ぼくには、家事や育児や、生活面での、甘え、依存が確かにあるのだけれども、逆に、仕事や経済的な面では、かなりぼくに依存しているんじゃないの。だから安心して、やりたいことが出来るんじゃないのという、反発が底にある。

 家事や育児のワーク・シャリング。本業のワーク・シャリング。感情の共有化。個々人の尊重と、夫婦、家族の共有…。いやはや~ハアー。夫婦関係って、なかなか難しいですわ。

 相手に要求すること、理想とする姿、価値観の相違が、表面化してきたことは、悪いことではないのだろうと、自分に言い聞かせながら、今日は寝ることにしよう。こたえているようで、不思議と元気な面もある。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

華光誌発送しました

 今日は、華光誌の発送。京都の同人の方にもお手伝いしてもらって、無事に発送終わりました。メール便が大幅、値下げ。ただし、少し配達時間がかかる。お手許へ届くのは、2、3日後になります。8月下旬からの作業ですから、やっぱりホッとしますね。次号は、少し早くて、11月中旬からの作業開始。華光大会が終わってからです。

 明日は、急遽、東京の同人のご示談を受けました。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

9月に観た映画(2)「紙屋悦子の青春」「ある日、突然。」

5、「紙屋悦子の青春」(06年、日本) 監督黒木和雄

  今年4月亡くなられたは、黒木監督遺作。このところ、監督のドキュメンタリーや特集番組をよく見る。この映画のメイキングも見たし、追悼上映会で原作者の話も聞いたので、かなり楽しみにしていた。いわゆる戦争レクエレム3部作の後も、また戦時下の市井の生活をとられた、静かな反戦映画。戦争を知らないものには、戦争や戦時下って、もっとエキセントリックで、非日常的で、勇ましく、または悲惨で、悲痛というステレオタイプで考えている。でも、ここでは、ごく日常で、でもムードは非日常で、生と死が交差しながらも、会話や振る舞いは普通で、時にとてもユーモアがあり、温かく、それでいて強烈な寂しさや悲しさがある。それを感傷的にならずに、見つめるものには控えめに伝わってくる、上質の映画だった。個人的には、「美し夏キリシマ」や、前作の「父と暮らせば」の衝撃度のほうが大きかったのは、確かだけれど。一般には、地味すぎるんじゃないかなー。

6、「ある日、突然。」(02年、アルゼンチン)監督ディエゴ・レルマン

 もし、会員の無料招待の作品じゃなかったら、絶対に見なかった。第一、こんな映画、普通は見る機会もない。期待していないときに、ヒットがある。有名云々、大作云々じゃないんだよね。26歳の新鋭監督の、初長編作品。全編、ザラザラしたモノクロの映像。そして、どこかオフビートで、とぼけた感覚もある。容姿不自由な、小太りの女性が、(解説にはパンク風とあってけど?)二人組の女性に、「その悲しそうな表情がタイプなので、セックスしたい」と、突然、ナンパされて、車で連れ去られて、不思議な旅が始まる。風変わりなロード・ムービーなんだけれど、一カ所に留まってからの、3人の変化が秀逸。それぞれの内面の孤独や葛藤が、新たな一面が現れてくる。新しい青春ロード・ムービーかも。

 いや、ここまで書いて、とても疲れた~。ここで、ちょうど半分。さてさて(3)(4)と、書く力や時間があるでしょうかね。

| | コメント (0) | トラックバック (2)

9月に観た映画(1)「美しい人」「セプテンバー11」

久しぶりに映画のことを書こう。 

先月は、映画館で10本、自宅のDVDで1本。1、「蟻の兵隊」(05年、日本)と、2、「バッシング」(05年、日本)については、ここでも触れたければ、いろいろな人にお勧めした。評判は上々。今月は、それ以外の映画も、なかなか収穫があった。

3、「9Lives(美しい人)」(05年、アメリカ) 監督ログリゴ・ガルシア

Utsukushiihito_01  かなりお勧め度高い。邦題の「美しい人」より、原題の方が好きかなー。9人の女性たちが、さまざまな傷や、寂しさや、弱さや、ときにはそれをひた隠しに生き、または過去にとらわれ、突然、感情的にののしり、愛を求め、愛に傷つき、または愛に気づく、9つの短編小説風に構成されている。またがって物語に登場する(たとえば、ある話の主人公が、別の話では、看護婦としてちょい役で働いてたり、1話の女囚人が、別の話の中で、逮捕される場面が出てきたり、看守役の男が、別の話では、娘との葛藤抱える父親であったり…)のを、見つける楽しみもあったけれど、基本は、それぞれ別の9名の女性が主役。  1話目からどんどん感情が表出され、こちらの情感を揺さぶってくる。2、3、4話と目が離せなくなる。少し落ちいた話もつづき、静かな9話目のラストが好き。ネタばれになるので書かないけれど、カメラが360度回転して見せるシーン…。もしやと思ってけれどね。ジーンとしました。

 監督曰く、「何かに囚われている人、マンネリに陥っている人、置かれていく状況から脱出できない人、成長できない人、絶望的な関係を断ち切れずにいる人などに、ぼくは興味を抱いている」。うーん。ここが気にいりました。

4、「セプテンバー11」(11’09’01)(02年、フランス)◆

 9月11日の夜、京都みなみ会館での、1回きりのアンコール上映。「セブテンバー11」という、世界中11ケ国の映像作家で綴られる11編。まずは、イランのサミラ・マフマルバフの、アフガン難民の小学校のエピソードで幕開き。フランスの監督は、クーロド・シャーヒン(有名な「男と女」の人ですね)、ろうあ女性が、間接的に体験する9、11。イスラエルの監督は、同じ時に自爆テロの現場の、救出と実況放送(フィクション)の一こまから。そしてイギリスのケン・ローチは、チリで起こった民主政権を、アメリカと、アメリカが支援する軍事勢力が、大統領府を空爆して、民衆をテロリストとして徹底的な弾圧(虐殺)をおこなう、もうひとつの9.11。ウーン。これは知らなかった。そして、インドの監督は、アラブ系というだけで、犯人扱いされ、実際は、救助活動中に犠牲となり、後に英雄扱いをうけたパキスタン人家族を。アメリカのシャーン・ペンは、光が時に悲しい真実を照らすことになる秀逸一品。ほかに、ボスニア・ヘルルツャゴビナから、エジプトやブルキナファンのアフリカから、そして、日本の今村昌平は、戦時下で、戦場で精神を病み、ヘビになった男の話などなど。ラストのオチは「蛇足」だけどね。

 多種多様。見方が変わり、立ち位置が変われば、事実も変わる。11名のメッセージは、どれも見応えあった。多様化した世界に、たった一つの価値観では、何も見えて来ないということ。今こそ、異質、異文化との出会い~つまり「聞く」ことの重要さが増すばかり。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

華光誌完成しました

 「華光誌」65-4号が、完成してきました。今日の聖典講座や、仏青大会の準備組には、一足早く渡りました。もう、年賀交換(はやー)なんですね。発送は、3日ですから、お手許には、早くて4日以降になります。

 さあ、隅から、隅まで、穴があくほどお読みください。決して、損はさせません。

「ここにも、お前を救うぞ、あそこにも、お前を救うぞ」の弥陀の呼び声と、「おれは、こうして救われたぞ。私も、こうして救われたよ」との称讃と、諸仏のお勧めの声で満ち満ちています。つまりは、南無阿弥陀仏のおこころってことですね。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

3度目の運動会

 幼稚園、小学校と続いて、この秋、3度目の運動会は、学区(町内対抗ですね)単位の運動会。子供のときはほとんど出なかったので、35、6年ぶりでしょう。いやー、早朝からお手伝い。久しぶりに、100M全力疾走。対抗リレーで、40台男子で、30代の家内にバトンを渡してきました。綱引きに、借り物リレーに、親子競争などなど、次々に出番ありまして、家庭用品をゲットしてきました。家内も、綱引きなんか転びながらも、勝利しまして、それなりに夫婦は楽しかったのですが、子供がね。いきなり、トッブバッターで、なにをしていいのかわからず、ビビッて、ズッーと泣いておりました。ちょっと、自分の血を感じますね。ナイブーで、ビビリで、初めてのことは苦手、似てます。特に上の子かな。

 でも、今日は天気が悪かった。すぐに雨がボツボツ。途中から、本格的に降ってきました。結局、お昼すぎまでは雨の中で競技して、途中で打ち切り。ちょっと助かったような、雨に濡れて寒い、そんな1日でした。その後も、後片付けや、残った景品の配布などありました。この勢いで、夜は、今月にある町内のリクレェーションの案内と申込書作り。自力整体の人なら知っている、マキノのピックランドに行くことになりました。たまたまなんですがね。さてさて、1日、ほんまお疲れさんでした。

 それにしても、中年を意識させられます。老眼(小さな辞書の文字が読みづらい)が迫ってきて、髭に白髪が交じり、人の名前が「あれ、あれあの人」になってきてますね。これからですわ。本格化してくる。いまは、年相応の年齢を感じてます。それでも、今日は、運動不足なのに、これだけ走っても、かなり大丈夫なのものでした。やっぱり、スリム化計画が功を奏しているのかな。ただし、体の柔軟度だけは、かなり自信あります。緊張しーいなのに、体は柔らかい。ちょっと矛盾しておりますかな。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

« 2006年9月 | トップページ | 2006年11月 »