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いま、ここで、経験を生きる

 真宗カウンセリング研究会の月例会があった。今年から、ロージャズ全集の「人間関係論」から、「人間の問題に関するカウンセリングによる一考察」を読み出した。なかなか味わい深い章で、じっくりかかわりすぎで、なかなか前に進まないが、それでも、脱線することもなく、本文に添いながら、それぞれの経験に則した読みが展開されていて、毎月、楽しみしている。何分2時間しかないので、アッという間に済んでしまう。

 今回は、担当者、急用で欠席となったので、ぼくが代理で司会した。「セラピーの過程」で、どのような変化の過程と、人格の発達が起こるのか、その要素は? について述べられている章の一部。

 本来は、個人、個人で独自で、記述が不可能と思われていたセラピィーの過程を:、膨大な経験に基づき、仮説を立て、科学的に検証可能な形で、またそれが、誰であっても、ここに示されたような態度で人と接する時に、そのような変化が起こり得ることを、一般化、普遍化されたのが、ロージャズさんの最大の功績のひとつであり、素晴らしさである。

 ここではその変化の過程を

 1)セラピスト(カウンセラーといっていいでしょう)が、受容し、理解してくれていることを、少しでもクライエントが、知覚した時、彼の経験上の矛盾をいくつか自由に探ってみたくなる。

 2)クライエントがこれまで拒否してきた自己の生活の情緒的な側面を、十分に経験し、意識してくるということである。

 3)カウンセラーが、クライエントを受容しているということを、クライエントが経験することである。

 このような無条件な肯定的配慮で受容され、無条件に尊重されていることを経験することによって、<1>自分自身の自己概念の防衛的な構造をゆるめるようになり、あまりにも脅威と感じていた態度に気づき、それを十分に経験することができるようになる。<2>カウンセラーの自分に対する態度を自分のものとして、それを自己概念に組み入れ、自己を正しく評価し、価値ある人間として、自分を尊重できるようになってくる。

 4)そして、個人の自己の対する見方が、持続的に変化していくということである。つまり、自分自身で、これまで非常に恐ろしいと思っていた(自分自身の)いろいろな感情を、十分に受容し、かつ経験することができるようになる。このような経験により、今までの自己概念が組み換えられ、次第に新た強い経験を取り入れるようになるように、再構築される。つまり、新しい自己が、セラピーの経験することによって、見いだされる。自己は経験におしつけられたような構造のようなものではなく、経験の中に見いだされ、経験によって定義づけられたということを認識するようになるのである。

という3)と4)を読んだ。いや、これだけなら、ちょっと、小難しいだけだなー。

 要は、新しい自己になる、自己を発見する過程であるが、この「新しい」は、むしろ、「本来」の自己になっていくといってもいいだろう。、自己概念は、「これが自分だ」と思っている自分。それは、だいたいにおいて、これまでのさまざまな外部乃至内部から影響によって、形づけられた理想像であり、「いま、ここで」経験されている自己とは異なっている。そのために、さまざまな形で抑えたり、歪めたり、誤魔化したりして、ますます歪んだ自画像、自己概念を形成することになり、その矛盾で悩み、苦しむことになる。過去に囚われたり、未来に不安を感じたり、他者の目(世間体)をばかり気にしたり、自尊意識も持てず、「いま、ここの、私自身」を生きていけない。

 ところが、自己一致したカウンセラーに出会い、どのような経験も、どのような私も(矛盾しようが、弱かろうが、異常な感情や、悪意ある態度も、恐怖も、絶望も、否定的な感情も)であっても、みな同じように、無条件の肯定的配慮(なんでも、「ハイハイ」といいなりになることではない。この「配慮」という言葉に、意味があると、ぼくはみている)をもって、受容され、無条件に尊重されているということが、クライエント自身も、十分に味わえたとき、これまで受け入れらずに、歪めたり、無視したり、否定したり、もしく無意識に隠していた自分自身の「恐ろしかった」に一面に、そのために、苦しめられ、その矛盾に悩まされていくのだが、初めてありのままに出会い、自分の一部として尊重し、受容されていく。そして、「いま、ここの、私自身」を生きていくのである。

 てなことを、自分自身の経験と重ねて考えておりました。具体的な、自分自身の経験については、研究会では少し話させてもらいましたが、それはまた別の機会にね。(それにしてだ。「別の機会」て書くのが多いな。映画のことも、本のことも、法座のことも、まだまだ書きたいことばかり。さてさて)

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コメント

大学で児童心理学の単位を取らなければならなかったのですが、とても熱くユニークな教授で、その教えに感銘を受けた私はいつも頭の中に置いていました。時は流れて我が息子達を育てるときも、時々は立ち止まって教えてもらったことを実践しようと頑張りました。が、息子に「口では言わないようにしてても、目や身体でプレッシャーをかけてるよ」と言われました。

うん、私の場合「配慮」のかわりに我執をくっつけてのことだものバレバレですよね(笑)。

投稿: どんべえ | 2006年10月20日 (金) 09:25

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火曜のエンカウンターに引き続き、水曜日には月例会があった。 振り返ってみると、7月と9月(8月はお休み)の月例会の報告をサボってる。 なので、今月は忘れないうちに。 とはいえ、内容は基本的にテキストに沿って進められるので、そのあらすじだけにしても長くなるからパス(笑) テキストはロジャーズさんの論文だが、私にとっては法座やミニカン・エンカウンターで体験していることを理論づける機会としてしている。したがって、体験の有無... [続きを読む]

受信: 2006年10月21日 (土) 03:08

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