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『世間とは何か』

 一橋大学元学長で、ドイツ中世史の専門家である阿部謹也さんの訃報のニュースを聞いて、10年以上前に読んだ本を読み直した。『世間とは何か』という新書である。

 個人をベースにした西洋の「社会」とは異なる、日本の「世間」(世の中)という枠組。「世間に顔向けできない」とか「世間を騒がした」とか、「社会知らず」とはいわないで「世間知らず」と使う、その世間。その世間を、中世から近代にかけてのての日本人たちがどのようにとられて、そして現代に影響しているかが述べられている。先日観た「バッシング」の「みんなに迷惑をかけた」の、みんなが「世間」の目にあたるといってもいいかもしれない。

 さて、この中で、1章を設けて、親鸞さんから蓮如さんにかけて、日本にあった地縁、血縁関係を越えて、法縁で結ばれた真宗教団の革新性について、これまでの日本にはない新しい人間関係として評価されている(笠原一男氏の論文に影響が色濃いですが)。そこには、信心決定の上では、魔界や怨霊も、死穢さえも否定されていく。世俗権力と厳しく対峙してまでも、貫かれていく信心があるわけです。まさに「無碍の一道」というわけ。そこに、真宗教団が、あれだけの教線を拡大させ、また権力者たちに恐れられて行ったのか。それが、いつのまにか体制に組み込まれ、そのときに失ったものは何だったのかが、隠されいるような気がしました。

 あくまで、その一つの原因ですが、確かに、教義や教学を学んだり、研究したりすることも大切なことだけれども、地域や血縁を越え、身分を越え、御同行・御同朋とともに、車座に座って、聴き合い、語り合った「法座」という伝道形態が衰退することが、浄土真宗の衰退でもあったわけです。今日の伝統寺院が、現代の流動的な社会状況に対応できないほど膠着化し、地縁と血縁に依存するしか存続の道がなく、将来の見通しもますます暗い状態となって、現場(特に地方ほど)、若い僧侶方は不安感を抱いているわけですよね。

 一方で、混迷を深める社会情勢の中で、「教団」の仏教(真宗)ではない、浄土真宗や親鸞さんについては、魅力を感じている(門徒以外)の人達も数多くおられる。でも、いまの既成の教団では、なかなか、そこに応えることができない。教義を、法話や書物などで一方的に発信できたとしても、「では、どこで実践的に聞法できるのか」「その受け皿になるような「法座」を開いているのか」と問われると、はなはだ心もとない。すこし前のことですが、カウンセリングの関係で知りあった方が、ぼくに愚痴っておられました。大阪在住の彼は、本願寺さんに、「定期的に信仰座談会を開いておられるところ」を尋ねられたら、なんと京都の宮津のお寺を紹介されたそうです。そのお寺自体も、彼のニーズを満たすものではなかったようですが…。

 「世間」の話題からかなりズレてきました。

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コメント

友人が霊が「見える」といって、「その霊のメッセージを大事に聞きなさい。」とアドバイスをくれた。
混乱した。
「有無をはなるとのべたまう」
「見える」も、「見えない」も「迷い」とはっきりと
聞かせていただける教えに出会わせていただけたことが
うれしい。

投稿: Tねこ | 2006年9月16日 (土) 10:06

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