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「連続無窮のお働き」~体験型法座~

 今日は、大阪支部法座と、3階研修場で予定されていた仏教青年会の例会と、合同で、法話会でした。法話会といっても、一方的に法話を聞いてもらうのではなく、華光誌の法話の輪読をおこないました。本人がいるのですから、法話を聞いてもらったらいいのでしょうが、たまには、受け身の法話よりも、体験型の法座にしたかったのです。

 というのも、昔、モレノの「サイコ・ドラマ」法座に取り入れていたとき、(このあたりは華光の先進性ですね。もう35年前のことですから)、よくこんな説明を聴きました。知的理解で「知っている」に止まるのではなくて、また単なる技術の習得ではなくて、体験的に学習する、身で聞くことの重要性と、その効果。つまり、耳だけで聞いて、理解できるのはたった15%程度。そこに目が加わると30%程度。さらに口が加わると、70%に理解度がアップして、最後、体=身で経験すると、90%も理解度がアップするそうです。いかに、「耳」だけでは弱いかということですね。「耳」って、けっこうバカなんですね。

 その意味で、一方通行の、受け身の法話では得られない、みんなで読むことで、「口」を使い、そのために「目」を使い、そしてそれを「耳」で聴き、みんなのことを意識することで「体」も使った輪読だったと思います。ぼくは法座で、参加している人の声を通して、聞かせてもらうことがあります。声が響くんです。みんなを意識しながら、読むことは大事だと痛感させられています。たぶん、ぼく自身も、自分が人に話すことで、自分の声を聞かせてもらっている。そうしながら、自分の気持ちを見せてもらい、ご法を聞かせてもらているんじゃないかと。みんなに、声を出して、伝えることは、皆さんが考えている以上に、深い意味があるように思いますね。

 ただ、今日は、人数が思ったより多かったこと。仏青の若い人もいたこと。そして、華光のご縁が浅い人や新しい人も混じっていこともあって、座談や質疑は大人しめだった気がしました。特に若い人が遠慮がちだったのが、残念。もっと感じたとことを、わかりきっていることでいいので、口に出してほしいと思いました。味わっことを、胸に留めず口にすることが、聞法なんですから。そのときに、特別な味わいはいらないんです。同じことでもいいのです。自分が味わったこと、読んで感じたことを口にするだけで、短くても、また当たり前と思っていることにこそ、意味があるわけです

 それにしても、そのまま受け取る、聞く、読むということは難しいですね。どうしても、その本位を理解するよりも、言葉の端にとらわれる。自分のこころにとらわれる。または、自分を抜きにして、人ごとというか、眺めているようにしか読めないようですね。それで、また質問や味わいを伝えて、そこを指摘してもらうことが大事なんです。

 そのように聞法していくことを、さまざまな無数の名もなき念仏者によって、導き、導き、育て育てられて、教えていただいているのです。「どう聞くのか」も教えてもらわないと分からない。よく華光は「エリート集団」だと指摘される方があります。ぼくにいわせるとそれは違います。ただ、すばらしいお手本が、身近におられるだけのことなんです。その人たちの真似をしてきた。真実の道があることだけでなく、その道を歩む先輩(得道の人、獲信者)に出会わせいただいき、その先輩、先生のお導きをいただける、そんな世界に身を委ねさせてもらったものだけが味わえる大きな徳なんです。それこそ、眺めているだけてはダメ。先輩同行のように、そのみ跡を慕い歩ませてもらうだけなんです。私の方は、自分のことしかない。自分の気持ち、自分のプライド、傷ついたとか、分かってもらえれんとかね。「わが心がどう、こう」と、ちっぽけなことにとらわている私一人に、果てし無く連なって、途切れることなく続いて、最後の最後まで救い取りたいという広大無辺の壮大なお働きが、いま、ここに、生きてかかっているわけです。なんというスケールでしょうか。そこに身を委ねずに、なにを聞くのでしょう。ほんと、間違いぱなしですわ。

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コメント

法座の様子が伝わってきました。参加するか否か…迷った末に今日はお休みすることにしました…が、ブログを読んで悔やんでいます。一期を逃した大きさは計り知れません。

葛藤の中での自らの選びですから、誰のせいでもないですね。

>そこに身を委ねずに、なにを聞くのでしょう。ほんと、間違いぱなしですわ。

ほんと、間違いっぱなしです。

投稿: MANU. | 2006年9月25日 (月) 00:04

この日はK子とZの小学校運動会。よだれやなみだ・糞までも・・・垂れ流し よろこんでる場合やなかった~(苦笑)冗談もいつまで通用することか。。。
 『耳って結構バカなんですね』ちょっと笑わしてもらいました(苦笑)。けど 記事全体から そのつぼに あたって響きます。
 『味わったことを胸にとどめずに口にすることがモンポウ』この導きのおかげの大きさを今実感します。耳で目で口で身体で・・・このようなモンポウの道を歩ませて頂けることも なかなか当たり前でないことを知らされ痛感します。
 
 この記事から これまでのかりもんさんのブログを通して そして最近の他での気づきなどから 以前かりもんさんに問うていたことの答え(?)のようなものが 気づかしてもらった気がしています。

 わたしって ほんとちっぽけな存在・・・   自分 この厄介なもの

>果てし無く連なって、途切れることなく続いて、最後の最後まで救い取りたいという広大無辺の壮大なお働きが、いま、ここに、生きてかかっているわけです。なんというスケールでしょうか。そこに身を委ねずに、なにを聞くのでしょう。ほんと、間違いぱなしですわ。

華光のご法座に出さしてもらい モンポウさしてもらう この一歩・・・・華光 モンポウ この一歩 ちょとしたMY生きたスローガン・・かな(恥) 

投稿: 雀斑。 | 2006年9月25日 (月) 18:00

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