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「当たり前」が「有り難い」~黒河さんの三回忌にて

 お彼岸とはいえ、日差しは強い。黒河さんがお亡くなりになったのが、ちょうど2年前の今日、9月21日。危篤の一報は、近江の聞法旅行の最終日に届いた。聞法旅行の恒例の宴会は、黒河さんが大トリ。その年は、その黒河さんの法味が聞けないことを、みんなで残念がっていた矢先のことだった。そして、翌朝には浄土へ還っていかれた。それから、丸々2年間。この間、ぼくは、何をやってきたのだろうかと考えると、感慨深い。

 初めて、お墓にお参りさせていただく。「南无阿弥陀仏」の「南無」の「無」を「无」にしたのが、こだわりらしい。お墓を拝むのではなく、「南无阿弥陀仏」を拝む。「わしゃ、こんな墓の下にはおらんでー」と言っておられることだろう。ご本人も、ご自宅の裏を流れている「木津川(淀川へ)にでもほってくれ」と言われていたそうだ。わが家には墓はなく、骨に執着する気持ちもサラサラない。そんなものは何の役にも立たないもの。

 ご自宅に戻って、一緒にお勤め。家族の方だけだが、少しご法話をさせてもらった。聞法旅行で、万行寺にお参りさせてもらった時に、ご法話をさせていただくご縁があった。その時にお話したことを、少しだけなぞった。

 大きなご恩、おかげをいただいて、今日の私がある。何ひとつかけても、ここに私はいないのだが、ひとりで大きくなったように錯覚する。親の御恩、生きとし生きるものの御恩、そして、仏法を教えくださった知識、先生の御恩。しかし、すべてがいつのまにか「当たり前」になっている。水道をひねり水が出る、リモコンを押せばクーラーが動く、それと同じように、食卓に並ぶものも、数々受けてきた愛情も、すべてあって「当たり前」で、省み、感謝することなどない。この「当たり前」の反対が、「有り難い」ということである。ほんとうは、「当たり前」のものなど、なに一つない。食べられるということも、しゃべれるということも、歩けるということも、トイレでウンチができることも、何でも自分の力で、当たり前のことだったが、実はなにひとつとして、自分ひとりの力でできるものではない。教えていただき、導いていただき、大きなご恩徳があり、健やかに生かせていただいているおかげなのである。そのことを忘れて自惚れてはいないか。

 しかし、ただ生かされているのを喜ぶだけなら、浄土真宗のおみのりが小さいものになる。なんのために生かされいるのかを、しっかり聞かせていただく。そこに、迷いを離れる道のあることを教えていただく。仏法の真実を聞くために、後生の一大事の解決をするために、仏様のいのちをいただいたことを聞かせていただく。我がいのちをかけて、教えくださった先達、知識に会わせていただかねば、とうとい知り得ることがなかったのだ。

 「善知識にあふことも 教えへることもまたかたし、よく聞くこともかたければ、信ずることもなほかたし」。 難しいというは、同時に「難い」ことである。会うことが稀というのである。ほんとうに、いま私がここに生かされ、そして聴き難いお念仏を喜ぶ身になれたとのである。こんな有り難く、不思議なことはない。そのご苦労が、そのおこころが、南无阿弥陀仏なのである。

          

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