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まあ、善人なんだし、死んだら仏さま

 昨日は、教行寺永代経法座でした。

門徒さん中心ですが、華光同人の方も数名。京都と大阪から、Tさん、Yさんペアも。5月からご縁ができて、皆勤ですね。帰路は途中までご一緒しました。「いつもお参りして、顔を見飽きておられませんか」と尋ねられましたが、いえいえそんなことありませんよ。せいぜい、ご縁のあるうちにお参りください。

 昼座の、前席は、「極重悪人唯称仏」の一文をいただきました。「極重悪人よ」と呼びかけられている。でも、キョロキョロよそ見してるわけですね。それで、みんな自己評価を聴きました。例の「1)絶対、善人。2)まあ、善人。3)絶対、悪人。4)まあ、悪人。そして5)どちらともいえない」というやつですね。すると、やっぱり、お寺ですね。6割以上の人が、「まあ、善人」に手を挙げられる。「特別悪いこともしてませんし、かといって、まあね、腹も立つし、欲もおこるんで、絶対善人ともいえません」とのこと。本心から、そう思われている。そりゃーそうだよな。このあたり、奈良でおこった女児の誘拐殺人の現場にほど近い。そんな死刑になるような人が「極重悪人」というわけでしょうかね。お寺でお説教と、実際の生活のこころとには、大きな隔たりがある。別に隔たりがあっても、そのことに気づいていたらいいのだけれど、まったくの不信もなく、本心から、道徳的に、「まあ、まあいい奴や」で、日暮らしされているんです。せいぜい、腹も立つし、欲も起こすし、汚いこころもあるければ、まあ、お寺に熱心にお参りして、それなりの日暮らしをおくり、子供たちも、あとのおまつりを怠らないようだし、お慈悲な阿弥陀様がほっておかれるわけがない。「まあまあの善人よ、ただ、仏の御名を称すべし」で、お念仏と、感謝の日暮らしを送らせていただきましょう。というところでも、かなり上等な部類でしょう。

 これを、「死んだら仏」という。

 その意味では、ぼくたちは、ドエラいことを聞かせてもらい、そのことによく頷ける身にならせてもらったと思います。不思議といえば、こんな不思議なことはない。ぼく自身は思いたくないんですね。自分ほど賢い、えらい、正しいものはないと思っている。でも、仏様に指名されたら、認めたくない奴が、「極重悪人よ」と呼ばかけに、「南無阿弥陀仏」と返事せざるおえなくなるのですから。これはとんでもない話ですね。「極重悪人唯称仏」の「唯」は、他力を表す「唯」。決して、「煩悩の無くならん悪いやつなので、念仏していたら救われる」程度のお救いではない。「極重悪人」こそがご正客。その身、そのままで聞くしかないです。

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コメント

かりもん先生、お世話になっております。
「極重の悪人よ」という呼びかけ!がこの流転輪廻の最高の喜びです。また我が身を点検すると深い悲しみもあります。ため息が出ます。遠い所に仏法は無いんですね。

投稿: TDM900 | 2006年10月 1日 (日) 20:17

追加なんですが、以前は仏法を聞くために生まれたとか思っていましたが、(そう思いたいと思っていました)そんな小さな尺度で計れる仏法様では無いということが嬉しい楽しみの所だと感じております。仏法様のお計らいとでも申しましょうか・・。

投稿: TDM900 | 2006年10月 1日 (日) 20:34

>以前は仏法を聞くために生まれたとか思っていましたが、そんな小さな尺度で計れる仏法様で無いということが嬉しい楽しみの所だと感じております。

 そうですね。「仏法を聞くために生れてきた」って正解のように、そして簡単にすぐにいいますが、私が人間に生れてくるだけでも、どれだけの仏様のご苦労があったか(弥陀十劫の立ち詰めのご苦労の大半は、私が娑婆に生れるためのものだとお聞きしました)を聞かせてもらえばもらうほど、私の物差しは役に立たなくなりますものね。

 ところで、TDM900さんは、ライダーなのかな?

投稿: かりもん | 2006年10月 1日 (日) 23:34

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