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『バッシング』

9月11日。京都みなみ会館で、映画を2本観ました。

Bas  そのうち1本目が、「バッシング」。

 こころに残るセリフがありました。「この国じゃ、みんなが怖い顔している。私も、怖い顔しているんだと思う。」

 いやー、ぼくも怖い顔して、生きてる。毎日、毎日。ビックスマイルとは、なかなかいきません。悲しい現実だね。

 で、映画は、ずいぶん過去になってしまった気がする(これも恐ろしいことですが)、イラクで起こった3名の日本人ボランティア人質事件を材料にした、フィクション。流行語になった「自己責任」という、例のあれ。そのうちの女性をモチーフにしたもので、ドキュメンタリーではなく、設定も創作。

 作品が、「事実に基づくか、創造か」とか、「フィクションか、ノン・フィクション」かなんていうことは、この際、まったく問題じゃない。どんなに事実に基づいたドキュメンタリーであっても、ひとりの映像作家の目を通して切り取られた瞬間、見せ方、きり方、つなぎ方、そして何よりもその立ち位置ひとつでかわる、主観的な作品になるわけですから。そこに意義があるのに、けっこうだまされやすい。原作がある作品でも、「原作どおりじゃない」と怒る人もあるけれど、いかにそれを解釈したり、換骨奪胎して造られたものが、ぼくにとって、面白とか、何か感じられるかの方に、ぼくは興味がある。当たり前ですが。

 その意味でいえば、この映画はいさぎよい。でも、暗すぎる。北海道の苫小牧が舞台。荒廃とした風景。ボツンと建つ、古く、荒れたアパート。それがそのまま主人公と、孤立した家族そのもの。被害者なのに、犯人か、国賊扱い。周りの無理解と、誹謗中傷の嵐。いまの日本のある種の空気を切り取った作品でした。テーマがしんどすぎるけど、悪くはない。お金払って、「みんな」というモンスターに、村十分にされるイヤーな雰囲気を味わいたい時にはどうぞ。といって、彼女に感情移入させるわけでもない。彼女のいやな面というか、コンビニでのかなり個性的な、協調性のない注文の仕方なども見せて、情感に流れないように止めている。もちろん、感情的になるBGMもなし。(エンディングが、フォークシンガーである監督自身の歌でしたが)。セリフよりも、タッチや、身体で見せる手法など、気に入りました。

 ラスト。つきものが落ちたような顔で、再び、彼女は、イラクへ旅立つ。そこに自分がほんとうに必要されている唯一の道を、自らが、自らの力で選びということなるんでしょうが、ぼくにはここが「?」でした。

「つながっていることは悪いことか」といいながら、彼女も、家族も、まったく孤立している。この国には、だれ信頼できる人も、相談する人もいない。これなら、結局、死を選びか、異国に逃げるかしかないんじゃないのかと。今日の日本では、期待することはできということなんでしょうか。たまたま、監督の舞台挨拶もあって、支援者がない理由もおっしゃっていましたが、ぼくには、イラクで接した人々の笑顔が支えになるだけで、しっかりとそんな自己を受け止められることなく、自力で立ち上がっていけるのかが、疑問。もっとも、問題は、その後かもしれないのだけどね。まずは、その歩みの一歩を、自ら踏み出した(自己責任だ)ということなのかとも、あれこれ考えています。

 

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