自力の執心の悪臭
さて、今夜は、伝道研究会。先の高山法座、東京法座、そして真宗法座の集いin広島などの振り返りで盛り上がる。中でも、三つの心(黒い心、白い心、暗い心)のうち、「暗い心」の扱いで、気づくことあり。これは広島でも、話題になっていたテーマだ。
信の一念の端的に暗い心は、キッパリ晴れる。本願に対して、「露・塵ほどの疑い」はなくなるのだ。ただ、「キッパリ晴れた。私は救われた」と、断言することで、逆に、一念の体験に止まる(いわゆる「握る」)恐れもあるのだ。親鸞聖人、自らが体験されたように、実際の「自力の執心」の恐ろしいのだ。
では、疑いはなくならないのかと問われれば、ハッキリと疑いは晴れる。自力・他力の水際は、火をみるより明らかなのである。そこに真宗の真骨頂があるのだ。しかし、「捨てろ」といわれても、「捨て場所」(死に場所)がないと、捨てるわけにもいかない。阿弥陀様は、暗い心の、捨て場所までもご用意してくださている。昿劫以来、一度も死ななかった暗い心の断末魔。疑いが晴れ、代わりに出てくる念仏の声なのである。昿劫以来の粗大ゴミは、ハッキリなくなった。しかしながら、その臭い臭い悪臭だけは、染みついて、しばらく残る場合もあるのではないだろうか。その場合、残っているのはゴミ(これは露・塵も役に立たない。捨てもの)か、それても悪臭の残り香か。ここは知識同行に近づき、誤魔化さずに、しっかり聞き分ける必要がある。
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