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今年の8月16日(パート2)

 そんなこんな時に、夕方、帰って来た家内と、さっそくぶつかる。うーん。いつものパターンだね。ささいな彼女の言動が、これまでのひっかかっていたことと共に、攻撃的に出てしまった。しかし最近、彼女も、そんなぼくを恐れないでしっかり自分のところは主張してくる。それで、いちおう相手の話すことは聴くけれど、人事ではなく、お互い自分のことなので、非常にシリアスな話し合いになってしまう。どうしても、ぼくに甘えがあって、彼女にカウンセラー的な対応を求めているようだ。

 お互い吐き出して疲れたけれど、それぞれが、自分の内にも目を向ける力もあるので、謝るとこは誤り、認められる部分は、認めるので、それなりに修復はできそうだけれど、お互いの違いもわかってきて、不安を感じる点もある。このパターンを繰り返しながら、ここ数年は、進んでいる。これでいいんじゃないかと思える面もあるけれど、相手のところではなくて、「もっと大人にならないとな」とか、「細やかすぎて、受容力というか、おおらかさがないな」とか考え込むと、ますますそれとは違う面の自分を、自分が責めだしてもする。それで、そのとき我慢したことが、いつか爆発するというパターンになってしまうようだ。

 ぼく自身が、華光の責任者にある立場で、それが年々重たくなっている。どこかで、すべてを知っておきたい、コントールしたいという思いと、どこかで「まかせねば」という理想とが、葛藤を起こして、ぼく自身がお留守になってしまう。前回は、「結局、なにがしたいの?」と、彼女に問われて、ハッと答えに窮してしまった。いつも、自分を殺して生きてきた気がするのだ。これがここ5年ほど続いている、ぼくの課題である。

 この課題に気づけたことは大きいけれど、簡単には解決しないようだ。でも、ボチボチでも、確実に学び、変化し、成長しているのも事実だと思う。一方で、どこかで、ぼくを理解し、受容している場(人)を求めるような気もする。灯台もと暗しなんだろうけれど、どこか寂しくもあるなー。

 ずいぶん、シリアスになった。

 おかげで、五山の送り火をすっかり忘れていた。あわてて屋上に上がった。台風の影響が、風が強い。会館から、鳥居、船形、左大文字3つが見える。昔は、大文字がいちばんよく見えたけれど、いまは、見えない。

 

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コメント

おはようございます。かりもんさんのブログを通じて「比量」させていただいております。映画のこと、音楽のこと、美術のこと、総じてアート観など
また、靖国問題(署名付)、カウンセリング、自力整体、華光会等々について、かりもんさんと人との関わり、思いを通じて、何かしらお味わいをさせて戴いています。特に、今日の奥様との関わりについては、同感(失礼ですが)です。
 私の場合は、妻に対して負い目があるからなお更ですかね。難しいです。時として妻の反応のないことを「わかってくれている」と思う私です。そして何かの折、そうでなかったことが分かる。また、負い目のある私は、時として「何かあるんかな?」と疑心でみる。自分を最も信じ、愛してくれて一緒になってくれた人に対してね。悲しく醜いほどの心根しかないことを知らされる。時として痛みに思うが、口に出さずとも「僕は正しいような」と自己弁護・擁護をする私。よくよく思うに「甘えている」ですね。妻、子、母など親しいものになればなるほどに、そんな気がします。            なんか、いっぱい聞いてもりたいことあるのか、長話になりました。すみません。ありがとうございます。

投稿: 稜季の父ちゃん | 2006年8月17日 (木) 10:05

このテーマで、さっそくコメントもらえると、うれしい。ご同輩という感じします。

 ほんとうはね、もっとドロドロもしているのが面白いのだけど、それはちょっと無理。
 お互い傷つき、傷つけ、苦労しながら、進むしかないようです。でも、エネルギーは使うけれど、どうもそのエネルギーのおかげて、山積みの仕事をこなしているふしもある。まあ、厄介な代物ですわ。

投稿: かりもん | 2006年8月18日 (金) 00:21

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