「戦争で死ぬ、ということ」
東京の行き帰り、ノンフィクション・ライターの島本慈子の「戦争で死ぬ、ということ」(岩波新書)を読んだ。
湾岸戦争が始めた時、「ハイテク戦争」と呼ばれた。テレビ・ゲームような画面を繰り返し見せられ、「かなりの高精度のピン・ポイントで、重要施設のみを空爆している」との情報が流れた。それが誤魔化してあり、情報操作以外なにものでもないことは、徐々に明らかになってくるが、最初は、「たいへんなことが起こっている」と感じながら、一方で、なにか遠い、漠としたイメージしか生まれなかったのも事実だ。ほんとうに知らねばならないのは、その下で起こっている大惨事に、目を逸らさずに、具体的に凝視すること。その空爆の下で、残酷にも生身のいのちを奪われ、傷つられ、人と人が引き裂きされていく。無数の民のこころを、恨みと憎しみと、悲しみに多い尽くしてる実態である。
この世には、さまざまな死がある。通り魔的なまったく不条理な死もある。しかし、戦争で死ぬということは、まったく意味が異なるという。そこには、悲しみだけでなく、憎悪と復讐心の果てることのない連鎖があるからだ。その「大量殺人」の実態と、それが必然的に生み出す怒り・反発・憎悪・復讐心・悲しみといった「人間の感情」を、しっかり見据えること。過去の事実のなかにこそ、未来を開く鍵があると、本書は結ばれている。
戦争体験者が、自らの体験をもとに戦争の悲惨さを訴えるものではないのに、その惨状の記述には、思わず目を覆いたくなる。「戦後生まれである著者が、自分の感性だけを羅針盤に、客観的な文献と証言の海を泳ぎ、若い読者にも通じる言葉で「戦争の本質(エキス)」を提示しよう」との試みだそうだ。ぜひ、若い世代にもお勧めしたい。
第一章 大阪大空襲――戦争の実体からの出発
第二章 伏龍特攻隊――少年たちの消耗大作戦
第三章 戦時のメディア――憎しみの増幅マシーン
第四章 フィリピンの土――非情の記憶が伝えるもの
第五章 殺人テクノロジー――レースの果てとしてのヒロシマ
第六章 おんなと愛国――死のリアリズムが隠されるとき
第七章 戦争と労働――生きる権利の見えない衝突
第八章 九月のいのち――同時多発テロ、悲しみから明日へ
ぼくには、戦時下にすでに原爆開発競争の報道があったことや、七章の、社会が複雑になればなるほど、その実態がますます巧妙で、見えづらくなるり、知らず知らずに戦争に加担し、加害者になる実態もある点など、考えさせられること多々あり。
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