地蔵盆
子供大会を1週間前にひかえて、仕事は、子供大会モードに入ってきた。明日は、みんなで集まり、準備会。子供大会一色になるべきところだが、でも今年は、少し様子がちがう。
京都では、町々に、お地蔵さんをおまつりしている。子供の守護役である。お盆ごろ、各町内会で、地蔵盆を開いて、壬生寺からお坊さんにお勤めをいただくのだ。
4月の地域の町内会会長に選出されたものだから、今夜は、お地蔵さんの打ち合わせ会があった。それこそ、30年以上もご無沙汰である。しかも、町内のことは母にまかせきりで、なにも知らないのにと戸惑うばかり。大概、雑用が多い。もちろん、悪いことばかりではない。まったく知らなかった町内の人や家を何度も回るうちに、顔見知りになれる。昔からの住人は、行事の中心役であるが、みんな父か、もう少し若い世代の人で高齢化が進む。一方で分譲住宅も増えて、ここ4、5年の間に、若くて、新しい人も増えてきた。それにしても、「知る」といことは、不思議なもので、お互い警戒心が解けていく。あいさつをする、笑顔を向ける、言葉を交わす。そのうち、子供同士が遊びようになったり、一緒に飲んだりするようになる。改めて知れば、あらたな軋轢が生れることもあるだろうが、この4ケ月ほどで、ずいぶん、近所の人を見るまなざしかあたたくなったのは事実だ。
で、子供のときは、2日間。夜まで遊んでいても、よかった。みんな仲良く、走り回っていた。思いっきり遊んだ。ほんとうに楽しかった。どうも、きょうは、昔を思い出す、センチな日だ。
それが、いつのまにか、2日が、1日になり、いまは、半日程度で終わるようになった。地域の商店街も、道路の拡張などでなくなり、大人の福引もなくなっていた。ダラダラ時間をすごすらしい。ということなら、「少しゲームでもやりましょう」かと提案しておいた。
それにしても、世間の会議や打ち合わせって、どうしてあんなに話を聞かないのだろうか。新人の意見は、「前例がない」の一言で、パッサリ。話の途中でも、割ってはいる。オバチャンは、こちらでベッチャクャ、あちらでベチャクチャ。華光やカウンセリング研究会の集いが特別なんだね。さらに、華光では、研鑽を怠らずに、前進しようとしている。この姿勢を貫きたいものだね。
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コメント
>それにしても、世間の会議や打ち合わせって、
>どうしてあんなに話を聞かないのだろうか。
ほんとうに、そう思いますねぇ。
一つの決め事に時間だけ浪費して、それでいて、でてくるものは、問題に対しての検討ではなく、発言者の「それはいや」「やめてほしい」の否定的なものばかり。
一度、いつもの半分の時間で終わらそうという方針でしたところ、今度は発言者を制して、主催者の用意した結論に導くだけ。それなら、決定事項として稟議書回せばいいのに、会議の承認という事実だけが必要。
でも、そういうことが判るようになったのは最近のことで、私同じだったんだよねぇ。
で、今度は、そういうことが判りだした自分が偉いと思いだしてしまう。
こいうことも、「私」抜きでは駄目ですね。
周りとの問題じゃなく、私の研鑽。
投稿: MAMU. | 2006年7月30日 (日) 14:08
MAMU.さん、まめなコメントうれしいです。
すこし前(といっても今年ですが)「聴くちから」という本を読みました。なぜ、人は話を聞けないのか、その損失。そして、どうすれば聴けるようになるのかが、具体的に述べられています。また機会をみて、詳しく紹介したいですね。
投稿: かりもん | 2006年7月31日 (月) 23:07