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2006年7月の22件の記事

『ジャスミンの花開く』

 Jasminewomen_01           今日も、映画2本。「ジャスミンの花開く」は、チャン・ツィョイー主演の中国映画。これはがっかり。「初恋がきた道」は、ぼくのなかでも、温かく心の残る名作なのだけれども、あの時の初々しさく比べるとなー。男運のわるいというか、常にその時代の最先端の生きかたにあこれがるというか、不幸を招く女4代のうち3代を演じる。まさに親の業が、子も業を引き継ぐ(間違った用法)ってな感じなんだけれどな。どの女性も、彼女が演じるのは、若い時だけで、ほんとの苦悩というか、葛藤を克服せねばならない場面はない。そこを補うのが、つねに母(時に祖母)役の、ジョアン・チャン(「ひまわり」にもお母さん役ね)で、彼女のほうが、よかったなー。

 お昼たべて、CDと本屋を回る。CDは、ボサノボ(カエターノ・ヴェローゾ)と、ジャズ(キターのジムホール)それに、インディア・アリーのニューアルバムなど6枚をGET。

  再び京都シネマに戻り、「ゆれる」を観る。、これは!久しぶりに、ここ ろ揺さぶられて、感銘。オススメ。でも、疲れてきので、今日はここまで。

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『胡同(フートン)のひまわり』

Sunflower_01_1  2本目も、中国映画にした。「胡同のひまわり」。「こころの湯」のチャン・ヤン監督。これも佳作で、共に、近代化の波が押し寄せ、取り壊される北京の下町の、父と子の葛藤がテーマ。舞台や展開、よく似ていますが、「ひまわり」のほうが、ぼくにはググッときた。 当時の中国人の、さまざまな形で影をおとした文革での悲劇の影響が色濃い。彼の名は、向陽(ひまわり)。貧しくも、北京の下町、人情豊かな胡同(フートン)で、共同生活を送っている。9歳になった彼の元に、突然、別れた父が帰って来た。画家として、知識階級だった父は、残酷な強制労働を虐げられて、無残な形で、画家としての生命を絶たれたのだ。息子の才能を知った父は、英才教育を施し、自らの夢を託した。しかし、厳しく接することでしか、愛情を示すことができない父と、息子はことごとくぶつかり合っていく。しかし、近代化の波が押し寄せ、生活スタイルも変貌する。胡同(フートン)の取り壊しも決まる。世間並みの生活を求める母は、そんな不器用で、安らぎのない父に、感情的になることも多い。しかも、父が強制労働を強いられたのは、同業の親友の密告だったのだ。傷つき、心を閉ざし、不器用な父。

 ときに、暴力的なまでの強引さで、息子を導こうとする父。画家として、父の影響を強く受けながらも、その愛情を受け入れられない息子の葛藤。所はかわれども、この父と息子の姿に、わが身を重ねましたね。男がなく映画かな。今日は、となりの初老の男性、泣いていました。時に子の立場になり、それでいて時に父の立場になったりもする。最初と、最後、新しい生命が生れる時に、「ひまわり」が使われる。失意の強制労働から戻った父が、ひまわりのタネを蒔く、なにげないシーンが、ラスト効いてくるように思えた。おすすめ度は高い。

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『玲玲(リンリン)の電影日記』

 今週は、火曜日に京都シネマで2本観た。今月は、京都シネマが多くて、明日も2本の予定なので、ここだけで、10本になる。まず、朝10時から1本。次の映画まであまり時間なかったので、お昼は簡単に済ませて、2本。たまたま文革を挟んだ中国映画だった。家族がテーマという点では、タッチもかぶってはいた。

Rinrin_01_1  まず1本目は、『玲玲(リンリン)の電影日記』(78本目)。邦題、ちょっとね。原題は『夢影童年』。いわば中国版『ニュー・シネマ・パラダイス』の触れ込み。『ニュー・シネマ・パラダイス』は、今年1月に、ダイレクトプリントの上映をみたけれ、世間の評判ほどはマアマアという感じ。甘すぎだ。
 で、最初はちょっと謎ときみたいになっている。映画好きの田舎出身の青年が、積んでいたレンガに自転車でぶつけた時、いきなり、見ず知らずの若いきれいな女性にレンガで殴られ、自転車も壊される。警察の捕まった女性。謝罪どころか、涙を流して彼女の部屋の金魚の世話を頼まれ、彼女のマンションに入ったら、そこはミニ・シアター。彼女の日記を青年が読むことから物語が始まる。
 舞台は、72年の文革期の、炭鉱の田舎街。テレビもラジオもなく、仕事を終えて野外映画を観ることが、唯一娯楽の時代。女優をめざす美麗な女性が、私生児(玲玲)を出産するのだ。母を支えたのが、映画。そして、小学校になった娘と、おかしな、しかし家族の幸せ薄い兄貴分小兵との出会いと別れ。母と娘を支えた、映画技師との母のロマンス。新しい家庭と、嫉妬。さらに大きな悲劇から、和解へと、やさしいタッチで進みます。

  新しい父と異父弟の母の溺愛と、彼女の嫉妬、さらに悲劇の場面に心引かれたかな。ただし、強引な展開で、「なんでやねん」と突っ込みたくなるほどの都合がいい出会い(「これまでは映画のような出会いはなかった」とセリフでいわせているね)、「なぜそんな優雅に暮らせていたの」なんと、疑問も多いのですが、そんなことは目をつぶると、けっこうウルウルさせるかも。欲を言えば、彼女の受けた心の傷に、もっと迫っていくと深みが出たかもしれないな。

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子供大会の準備会

 今日は、朝から夜まで、子供大会の準備会。朝は、リーダーを自覚したK子ちゃんと、ベテランのS君、初参加のM君。この3名が今回の中心者で、下見にも行ってくれた。午後からは、 ̄子供大会いのち」のS子ちゃんが加わる。いろいろと作業がある。名簿、名札、仏具のおみがき、大きなプログラム、寝る部屋や分級を分け、掲示用に大きく書く。おやつの買い出しに、旗の準備、会場への連絡に、参加者の連絡、保険会社との契約。水泳、キャンプファイヤー、キャンドルに、追跡ハイキングの準備。切符や移動手段の手配。紙芝居などの教材の準備に、スライドの準備。荷物もきめ細かく用意しているので、大きな段ボールでいっぱいになる。書き切れない、細かな作業も多い。

 それでも、参加者が少なくなったので、準備も、全盛期の半分、いや三分の一程度かもしれない。それに若い人達がよく手伝ってくれるので、かなりおまかせするようにしている。完璧主義者のぼくとしては、荷造りひとつにしても、雑さにやきもきするが、細かな枠は仕方がない。それでも、要所では指示を出している。大切なお子さんを4日間も預かるのだ。これは、親の端くれになってから、若い時に感じていたところとは違う意味で、年々責任の重さを痛感している。これまでのノウハウもある。経験も蓄積されているから、少々手抜きもできそうだが、油断は禁物。準備も、打ち合わせも真剣にやる。いいかげんな先生には、いまでも腹が立つ。確かに、行き当たりばったりでも、うまくやれるろうが、それでは次の世代が育っていかない。馴れ合いになって緊張感にかけた集いは、いつか大きな事故にもつながるだろう。だいいち、惰性で動いていたら、人だけなく、自分が育ててもらえない。子供大会は、子供だけでなく、お世話の先生が育っていく場である。一時は、ほとんどひとりでやっていた時期もあった。たいへんだったが、動いた分だけが、自分自身の身についた。ぼくの成長の場だった。

 子供大会も、50年以上のたった。いろいろな人が、巣立っていった。親子2代どころか、いまも3代目が主流で、まもなく4代目の登場も間近かな。情熱をかけてここまて続いてきたものだ。そしてなによりも、「仏」の子供大会。すべてがご法の働きに他ならない。

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地蔵盆

 子供大会を1週間前にひかえて、仕事は、子供大会モードに入ってきた。明日は、みんなで集まり、準備会。子供大会一色になるべきところだが、でも今年は、少し様子がちがう。

 京都では、町々に、お地蔵さんをおまつりしている。子供の守護役である。お盆ごろ、各町内会で、地蔵盆を開いて、壬生寺からお坊さんにお勤めをいただくのだ。

 4月の地域の町内会会長に選出されたものだから、今夜は、お地蔵さんの打ち合わせ会があった。それこそ、30年以上もご無沙汰である。しかも、町内のことは母にまかせきりで、なにも知らないのにと戸惑うばかり。大概、雑用が多い。もちろん、悪いことばかりではない。まったく知らなかった町内の人や家を何度も回るうちに、顔見知りになれる。昔からの住人は、行事の中心役であるが、みんな父か、もう少し若い世代の人で高齢化が進む。一方で分譲住宅も増えて、ここ4、5年の間に、若くて、新しい人も増えてきた。それにしても、「知る」といことは、不思議なもので、お互い警戒心が解けていく。あいさつをする、笑顔を向ける、言葉を交わす。そのうち、子供同士が遊びようになったり、一緒に飲んだりするようになる。改めて知れば、あらたな軋轢が生れることもあるだろうが、この4ケ月ほどで、ずいぶん、近所の人を見るまなざしかあたたくなったのは事実だ。

 で、子供のときは、2日間。夜まで遊んでいても、よかった。みんな仲良く、走り回っていた。思いっきり遊んだ。ほんとうに楽しかった。どうも、きょうは、昔を思い出す、センチな日だ。

 それが、いつのまにか、2日が、1日になり、いまは、半日程度で終わるようになった。地域の商店街も、道路の拡張などでなくなり、大人の福引もなくなっていた。ダラダラ時間をすごすらしい。ということなら、「少しゲームでもやりましょう」かと提案しておいた。

 それにしても、世間の会議や打ち合わせって、どうしてあんなに話を聞かないのだろうか。新人の意見は、「前例がない」の一言で、パッサリ。話の途中でも、割ってはいる。オバチャンは、こちらでベッチャクャ、あちらでベチャクチャ。華光やカウンセリング研究会の集いが特別なんだね。さらに、華光では、研鑽を怠らずに、前進しようとしている。この姿勢を貫きたいものだね。

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マンゴーの香り

 今日、沖縄の華光の同人から、会費と一緒に、荷物が届いた。沖縄で、布教の前線にたたれている方で、ぼくが小さなころに、華光会館に下宿しながら、聞法されていた。子供のころは、旧華光会館には、たくさん人が同居されていた。貧しかったので、間貸しをしていたのだ。記憶にあるだけでも、家族世帯が3世帯。単身や学生さんが、4名はおられた。最初のころは、道場を間仕切りしていて、もっとたくさんの学生さんがおられた。なかには、ここで仕事をされている方もあり、ミシンの音が耳に残っている。共同炊事に、共同トイレに、風呂はなし。今日のような暑い日は、いちばん奥に住む奥さんが、トイレで行水をされていた。いろいろなことがあったのだろう。あまりに幼くて、親のほんとうの苦労は知らないで育ったが、いま思うと、20代で、束ねをしていた母の苦労は並大抵のものではなかっただろう。さらに、別途、いろいろな人が、短期、長期に、お手伝いをしながら、聞法のために居住されておられた。ほんとうにいろいろな人が、行き来された。そうしながら、華光会館の建設費の借金の返済にあてられた。あとは、文化教室も盛んで、会館が維持されていた。いまのように、賽銭も集めず、同人会組織もなく、本業の布教活動は、自発的な懇志で支えられた、無報酬ではないにしろ、かなり苦しかったことは確かだ。

 なかでも、この沖縄の女性のことはよく覚えているひとり。ご縁が遠のいていたが、ぼくが、本山のビハーラ養成講座で、真宗カウンセリングの講師を勤めたことがご縁で、少し交流させてもらうようになった。お礼のお電話をしてお声を聞くと、40年前に戻っていくようだ。ニコニコ笑いながらホウキをもっておられた姿や、なくなった叔母とのやりとり、ぜんざい好きの思い出などが、懐かしく蘇る。還暦を迎えられたそうだが、いつまでも若々しい「クラちゃんですね」と言うと、いや、「クラゲ、クラゲ」と呼ばれていたよ、と切り返されてしまった。そのことは、すっかり忘れていた。

 荷物の蓋をあけると、マンゴーの甘ったるい芳醇な香りが、ひろがった。そのせいか、今日はセンチになりすぎだね。

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癒し系は、自力か、他力か

 ブログはじめて、また2週間目ですが、早くも自力整体の教室は、3回目。他力になったり、自力になったり、これは、若存若亡かもしれんぞ。今日は、金曜日なので、伏見の教室てはなく、河原町六条まで、自転車で15分ほど。それにしても、今日は暑かった! でも、やっと真夏になって、うれしい(^0^* 寒いよりも、暑いほうが断然好き。薄着をすればいいんだし、クーラー苦手なので、なるべく使いたくない。この点は、夫婦で意見が一致するので、賢く冷房利用しています。でも、外出するとそうもいかんのが難点。映画館では、ブランケットの貸し出しをしてもらうほどですから。

 夏場は、身体もやわらかで、気持ちいいー。世間の人と比べて、かなり身体が柔軟です。とくに、捻る動作や前屈、股関節や腰がかなりやわらかなようです。それでも、左右は微妙に違うのがよくわかりますね。右の方が凝ってたり、つっぱていたり、プチやりづらい動作がある。日頃の身体の歪みを、敏感に感じられるようになってる。そして大切なのが、動きにあわせて、声をだして、呼吸をすること。これは最初、恥ずかしかったですね。ヨガの教室の時もそうでしたが、中年女性が大半で、ほとんど(まあ、そうだよね。平日の午前中に来れる人って、普通は、子育ても終わった主婦中心で、なぜか定年男性はいない)、指導の先生もそうで、M先生か、Kさん(共に華光同人)に会わない時は、ひとりだけ男性。オバチャンに囲まれながら、「ハーア」とか、「ア~ア~」などと、時に艶ぽく声が出せるまでには、勤苦五年のご苦労がありました。でも、これがいいんだ。思い切り、身体を、呼吸と声と合せて解放しています。これは、今年から始めた呼吸法でも同じ。このあたりがいまの関心事のひとつですね。

 教室が終わったあとは、ひとりでランチ。日頃は、朝食抜きで、1時ごろまでなにも食べずに、昼は、玄米おにぎりに、汁物、納豆というシンプルもなもの。それが自力整体整食法のユニークなところなんですが、外に出たときは別。ゆっくり時間を楽しむ。ぼくぐらいの年齢で、平日にこんな時間を使うことはかなりのぜいたくな話。諸冨さんの本だったかにもそんなことが書いてあったので、罪悪感を持つことなく、リラックスできるようになった。六条教室の時は、東本願寺の総会所の並びにある「Te Concepcion」へ。ここのランチはいい。前菜を選んで、メーンを(肉か魚)を選んで、デザートを選んで、ポットサービスの紅茶(紅茶のお店なので)をいだたいて、1300円。なによりも、広い空間で、いつも空いていて、男一人でもゆったり時間が持てるのがいい。今日は、海老と冬瓜のコンソメ味のジュル。涼しげー。魚料理にしたら、スズキと、スキャンピ(手長海老のことかな?)のグリルをスモモソース(甘酢っぱい香りがよかった)、夏野菜添え。ホワイトチョコのティラミスを選んで、ウバの紅茶。あとは、ゆっくり読書。「密息」身体が変わる。面白そう」(新潮選書)。身体論、呼吸法、仏教(禅)…まだ半分。帰りがけに、偶然、自力教室の知人が入ってきて、佐保田ヨガや沖縄などのよもやま話。

 で、今日は、kanroの幼稚園関係で仲よくなったヘアー・サロンに、カットへ。ここのご縁で、8月末に講演の講師頼まれた。単なるテクニックやセンスだけでなく、心のこもった接客など、トータルなサービスをめざしている集まりだということ。接客のテクニックと、傾聴とはまたちがうけれど、結局は、人間性という点では共通するものなので、引き受けた。

 仕事は、3時から。仏の子供大会の準備が中心。ボンボンの作ったミックスジュース美味! 保険の連絡に、参加者への参加案内の送付、そして、名簿も夜に作成。あれあれ、子供大会ではなくて、大人大会。子供16名に、大人が18名。大人のお守りもけっこうたいへんですね。遅くまで飲んで寝ない先生にも、足裏に×つけるぞー

 CDは、マりーナ・ショウのソウルフルな音楽と、ナラ・レオンの「美しきボサノヴァのミューズ」を聴く。夏になると、ボサやラテンをよく聴く。

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ご示談

 今日は、珍しく、まったく初めてお会いする人のご示談を引き受けた。基本的に、華光のご法座のご縁のない人は、まずご法座に出席してもらうことからはじめている。今回は、ご夫婦で華光同人で、そのご姉弟さんであることと。電話でお話したら、ここ数日、食事ものどをとおらず、夜も眠られないほど、後生が苦になっておられること。それでいて、お寺でのご聴聞はそれほど経験がないとのこと。緊急の依頼だったこともあって、獲信どうこうではなくて、聞法の道筋をつける意味でも、一度お会いすることにした。

 今朝になって、「そちらで宿泊もできますか」とのこと。解決までは泊まりこんででも聞くという覚悟のようだが、「今回は、リラックスしておいでください」といっておいた。少し遠方で、ご主人の車ということもあったがら、約束の時間より2時間も早く到着された。すこしお待ちいただいて、研修場で対座した。かなり力がはいっておられる。緊張にくわえ、かなり焦っておられることがひしひし伝わる。

 というのも、おばあちゃんが、ある知識のご縁をいただかれ、そのご縁で、お母さんも獲信され、つねに「人間に生れて、獲信せねば、石や草とかわらない。後生は一大事。自分の悪業で恐ろしいところに行くぞ」と、子供の時から、育てられておられた。しかし、たよりの知識が亡き後は、どのように聞いていったらよいのか、またどのように伝えたらいいのかわらなぬまま月日が流れたが、「こころの時代」放映をきっかけに、ネットを通じて、弟さんが華光に出会われ、後生の夜明けをされた。そのうえ、今年になって、まだ若い兄弟のひとりが急死され、その法事の席上で、お母さまが、「後生の一大事」の大切さを、コンコンと説かれたそうだ。それから、いてもたってもいられず、「こんな根性の悪い奴でも頂けるのか」「自分の思っている以上に、恐ろしい世界があるのではないか」と、考えば考えるほど、家事も手につかなくなられたようだ。

 後生の一大事は、急がねばならない。しかし、焦ることではない。どんなに自分をおいつめて、わが胸をながめ、結果を焦っても、それでは聞法ではない。もし獲信が、単なる心理操作や超常現象のたぐいなら、これを機に追い詰めていけばいいのだろうが、真宗はそんなものではない。地獄行きのわが身と、その地獄行きの身にかけてくださったお慈悲を聞かせてもらわなければ、なんの意味もない。「ほしい、ほしい」「なんとかしたい」の人は、追い詰めるのではなくて、すこし冷静に落ちいてもらわないと、聴ける話も聞いてもらえない。

 で、こちらからでfなく、大方の時間は、いまの心境や、こころにかかっていることなどを話ていただき、受容的にゆっくり聞いていくうちに、焦りもおさまり、いままでだれにも話せず、こころに秘めて重荷になっていた自分の醜い姿、罪悪の姿を、具体的にお話してくださるようになった。これは詳しくは述べられないが、その姿を通して、自分をかなり見つめておられるようだ。でも、こんな性悪の心では、頂けない、信じられないのではないかと悩んでいかれた。

 それで、それがまったく逆であることだけをお伝えした。自分がいただくとか、信じるのではない。アミダさまのほうが、先手をかけて信じてくださっている。罪業を抱え、裸で生れてきた私をいとおしく、命懸けで育ててくださっている。その命懸けの慈愛にふれさせてもらって、ご恩をご恩とも思わないのも、下がるはずのない頭が下がるという不思議な仕組みを、仏さまが、食べるものとなり、着るものとなり、憎い人にもなってくださっていることを、具体的に諄々とお話させてもらった。

 すると、「まったく聞き違いをしていた。反対だった。バカものだ」と、涙で懺悔されだした。それで、別に念仏を勧めるのではなく、お念仏のおいわれをお話して、一緒に静かにお念仏をさせていただい。いただくとか、獲信とかではない。なにを、どう聞かせていただくのかの、聞法の道をつけさせていただいただけだ。焦って、追い詰めて聞くご法ではなく、常に願い、かかっているお慈悲に心を寄せて聞かせてもらうだけなのだ。そう、「聞く」ことがなければ、始まらないのだ。でも、それが難しい。しかし、それだからだれも聴けるのだ。 

 引きつった緊張と、不安の表情が、やわらかな晴々した笑顔で、帰路につかれた。ほんとうの意味での、獲信はないだろうが、ひとつの聞法の方向が定まったのではないか。さっそく、あさっての日曜日の大阪支部法座にはお参りされそうだ。南無阿弥陀仏。

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そうだったよな~法の働きに…~

 今日は、午前中は、ミーティングやら法座の記録などの事務作業をしたが、午後からは、月一度のペースでおこなっている、ある同人とのカウンセリング。カウンセリングといっても、あらい場面構成しかしていないもので、雑談をしたり、仏法の相談をしたり、法座の感想を話し合ったりもする。そのなかで、彼自身が、自分のところを話してくれるところを聞かせてもらったり、また感じたことを伝えたりもするのだけれど、自分自身が、もう一度、自分の言葉を自分で聞きながら、「そうだったよな。忘れてたよな」と、聞法の原点に帰らせてもらうこともあるから不思議。ほかの話題も交えているので、かなり長時間となった。

 夜は、伝道研究会。今夜は、完全に二部構成で、前半と後半では違う集まりになった。

 最初は、「念仏の雄叫び」の「罪悪観・無常観」の輪読の2回目。今日は、罪悪観のところ。世間の罪と、仏法の罪との違い(二世に渡る因果)、罪福心の問題、そして、「善・悪」「罪・福」から、「信・疑」に進み、、罪悪観の具体例としての、「煩悩(黒い心)」の罪悪と、「疑い(暗い心」の罪悪の問題などを輪読した。これはかなり大切なところで、法座でも、このあたりをゴチャゴチャにしてお味わいを語られることもあるけれど、ここが聴けてくると、なにを喜んでいくのかがハッキリしてくる。逆に、ここがハッキリしないと今生事の法悦でとどまり、小さな仏法になるのではないか。(P16~26あたりを読んだ)

 少しお茶休憩をして、続きをというところで、出張から駆けつけてくれたMANU.登場で、このところの京都支部座談会や、広島での集まり、そして、カウンセリングの学びや、法座でのかかわりでの具体的な話題になって、ぼくも、壮年の集いからの気付きを話したが、Tさん、M先生と、それぞれのところでの思いを述べあった。前半の「罪悪」の問題が流れたのはもったいなかったが、こちらのほうが、いまのぼくたちの関心事で、俄然、盛り上がった。やはり、話すうちに(聞いてもらっているうちに)、「そうそう。そうだよな」と、ハッキリ引き戻されるから不思議。ぼくはいま、「これはカウンセリングだから」とか、「真宗法座だから」のところで分けて、動いてはいない。ましてや、「カウンセリングは聞くこと」「真宗は話すこと」という分類をする人もいるが、これはまったく論外。要は、常に、いま、ここにいる、ぼく自身が、この関係のなかで、どう動いていきたいのか。自分自身をありようを信じるだげなく、そのぼく自身が、大きなご法に支えられているという大きな安心感をいただいている。要は、ご法の働きに生かせてもらっているのである。そのことを、すぐ忘れる。そこを改めて気付かせてもらった。今夜のメンバーは、僧俗の別なく、華光の法座のあり方、関わり方で、実践の中に生きている人達だからこそ、みんな試行錯誤し、悩みながら、聞法の場を創造してく同士なのである。今夜は、ここで時間切れ。

 昨日、観に行った2本の中国映画のこととや、移動の車中で読んだ本のことも書きたかったけど、これはお預け。明日は、初めての方とのご示談がある。

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九州支部法座

昨日は、月曜だったが、九州支部法座。翌日に、病床示談の話もあったけれど、都合で延期になったので、今回は、日帰り。雨心配だったけれど、新幹線は影響なし。鹿児島から、ほんとうに久しぶりに参加を希望されていた方が、電車も、バスも不通区間があっておいでになれなかったのは、ほんとうに残念。

で、I家での家庭法座形式開かれたが、ご家庭がたいへんな様子。ご主人の97歳になるお父さまの具合が悪くなられて、当日、検査の結果、手術のために入院となったのだ。法話の間は、家人の方がどなたもおられないなかでの法座となる。しかも、Iさんの知り合いの初参加の方が4名、ほかにも初めてお目にかかる方もあったので、輪読はやめて、壮年の集いでの話したテーマを、少しかみ砕いてお話した。もっともっとやさしかってもよかったかもしれないけれど、だいたい法話や座談では次ようなことを話した。

 真宗は、死んだ人のためではない。生きている間に、こころの葬式をすませてもらう、平生業成(この言葉使わなかったが)の教え。何のために生れ、そしてどこへいくのかを、自分自身の問題として、問い、聞かせてもらうために集う人達の会であることをお話した。そして、「生老病死」を縁として、そこに止まらず超えさせももらう。たとえば、「死」でも、それを、三人称(他人の死)、二人称(近親者の死)とらえるのではなく、、一人称(私の死)として、受け止めていく。しかもそれは、死に方(死にざま)の問題ではない。死後の供養や葬式のことでもない。

 お釈迦さまの四門出遊。別に、老人や病人や死人をご存じなっかたのでなはい。それまでは、所詮、人事か、せいぜい身近な人の問題にすぎなかったのが、初めて自分の問題となったが、やはり受け止めることが出来ずに、目を逸らされた。(その場から離れた)。しかし、初めて一人称になって苦悩されたからこそ、それを超えた安らかな世界を求めるために、地位も、名誉も、お金も、家族(美人の奥さんに、かわいいひとり息子まで)も、そして約束されたこ将来まで、何もかもすべて捨てて出家されていく。だって、荷物が多ければ、多いほど、仏道の妨げになるからね。つまり、その後すべての仏教徒は、生老病死(略して、生死、つまり「まよい」)を離れるために、釈尊と同じ道を歩まれた。「あすありと、思うこころのあだ桜、夜半に嵐の ふかぬものかは」と、無常に驚かれて出家された、親鸞さまもまた、20年間、比叡山でこの道を歩んでこられたのが、法然上人によって、弥陀の本願に出会われた時、選んでくださったのが、肉食妻帯の凡夫道であった。親鸞さまは、聖者の道を歩むことのできた御方である。にもかかわらずである。もったいないな。まさに、私ひとりのためじゃないですか。南無阿弥陀仏。そのおかげで、末法の凡夫のわれわれが、真実が聴けるようになったのだ。この泥凡夫の身が造る悪業の身を知らせてもらう。そして、わが身の後生の問題として聞かさせてもららう。そのために、老人、病人、そして死人が、三天使として、私の目の前に、天から使わされている。閻魔王が、「懈怠、放逸ですごしていても、かならず「生老病死」から逃れられないぞ。そして、自分の業をもって落ちていかねばならないぞ。目の前の三天使は、お前の姿そのものだぞ。それを知らせてもらったのに、だれのせいでもない。自分の責任なのだ」と、ご親切にも教えてくださているが,果たして、私はどう聞いているのか。 自分の後生の解決を、ひとつの結び目に仏法を聞かないと、かみ合わないものだ。

 まあ、こんな調子ではなっかたけれど、こんなことを話したのでしょう。あとは、自分(凡夫の智恵)はかりと、仏さまの(三世、十方)を貫く智恵のはかりが、いかに違うかを、これはかなり具体的に、「夏生れて、夏死ぬセミは、春、秋をしらないのだから、夏も知らない」ことや、自分の智恵の限界などを交えて話しました。まあ、ひとり、ご縁がつく方が出てきそうですね。少しずつですが。何かが、雰囲気は伝わったのかなと思います。

 それにしても、遠かったな。往復に、八時間、滞在四時間は、少しもったいないかも。

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人間の値打ち

 今日は、仏教青年会の法話検討会。8月の仏の子供大会に向けて、若手先生方が、交代で法話をしてもらった。今年のテーマは、「人間の値打ち」。本来なら、「人間に生れた意義」ということだけで、すこし子供向けにしている。でも、これが難しい。正解ではなく、みんなで話し合うちに深まっていきました。人間に生れて、自分の値打ちの最低(低下)と最高を教えてもらうことが仏法だよね。

 法話は、縦糸にテーマ。そして横糸に個別のテーマがある。開会式が、導入とテーマの提示。2日目朝が、罪悪観。3日目朝が、無常観。4日目朝が、後生の一大事(因果の道理)。閉会式が、仏さまの救いというふうに、5名が、個々の特徴を生かしながら、ひとつのテーマを織りなしていく。これはすごいです。子供向けと侮るなかれ。とくに、当日の法話は、内容や小手先ではなく、ご法の重みが伝わってきます。今年も、それぞれ工夫れていました。堂々としたわかりやすい人、小道具や絵などの工夫、なによりも、その人のご法への姿勢が伝わってきて、これは子供大会当日が楽しみ。

 夕方から、当日の第1回打ち合わせ。役割分担。伝統ありますから。みんな思い入れがあります。ただ、子供の時から、何十回も参加している人と、先生役で今回が初めての方でも、かなりの思い入れ度数が違うかもしれませんが、わかったものけで、盛り上がらないようにしないとね。楽しいなかにも、その点は配慮。

 明日は、北九州での支部法座。雨が心配です。鹿児島,熊本の同人の皆さん、大丈夫でしょうかね。朝、早いので、今日は早寝。法話の教案は、華光誌の輪読を予定しているが、いまメールをみたら、けっこう初めての人も多いとあったので、「壮年の集い」での法話を再構成してもいいかも。あとは新幹線のなかで。

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ダラダラと書いてます

 今日は、朝8時30分に、仏の子供大会に下見のために若手の先生方集合。初めてのムラ君に、3名の皆さんご苦労さま。もう5年前から、下見などは、皆さんにまかせるようになった。今年の会場は、昭和59年からのおつきあい。毎年でもないが、10回以上使っているでの、会場、水泳場、追跡ハイキングの下見共に、勝手がわかっている。それでも、あらかじめ下見をして念入りに確認をしている。今日が〆切だが、まだ少ない。

 昨日、同人の関係者から、緊急のご示談の依頼をうけた。まっくた初めての方で、すこし電話でお話をさせてもらう。どうしても、明日(土曜日)、行きたいといわれる。後生が苦になり、モヤモヤされるらしい。少し迷ったけれど、聞法の道を付けてもらえるかもしれないので、引き受けることにした。幸い予定していた相談が変更になって、時間があったので、午後で決まったものの、逆に先方が家庭の事情で無理となり、木曜日に延期となった。やれやれと思っていると、朝いちばんで、今日の相談の依頼ががある。なにがなんでも、今日は、「お前、話を聞けよ」ということなんでだろう。

 午前中は、いつものように呼吸法をしてから、週1度の自力整体のための伏見桃山の教室へ。毎週やっていても、体調や精神状態で、カラダの感じが違いが感じられる。久々の晴れ間で、すこし蒸し暑かったのか、今日は、すこし長く感じられた。肩甲骨のあたりに「力はいってるな」を感じながら、カラダを整えた。感覚(センス)が鋭くなる。本屋を覗いて、新書、文庫を1冊ずつと、定期講読している「エスクァイア」の9月号と、「swing journal」の8月号を購入。伏見の教室のときはよく寄る、iicha.chi というカフェで、マスタードポークを注文。お茶飲みながら、本を読まないで、分厚い「10年日記」をわざわざ持ち込んで、まだ未記入だった、法林寺の記録と、壮年の集いの記録を少し書いた。これも1冊ピッチリ書いて、2冊目になる。我ながら、几帳面な凝り性ぶりよ。

 自力整体で身体を十分開放したあとに、話を聞くのは、かなりいい状態で、聴かせていただけるのを実感。重いテーマも温かく聞かせていただけた。発見多し。時間オーバーしたが、ちょうど終了したら、子供大会の下見から帰宅したところで、報告を受ける。明日は、法話検討の予行練習と、打ち合わせ会。

 今夜は、MANU.さんプロデュースの京都支部の法座があったが、ボンボンが、児童館の夏祭りの打ち合わせもあったので、子守りしたり、資料用の新聞切り抜きを整理(おもわず読んで効率悪し)したりして時間がすぎる。今夜は、短めの信仰相談1件と、メールで、壮年の集いの相談などに対応。そうそう。あと、京都の若手の理容師の人達がつくる集まりから、講演依頼があった。まったく畑違いなので、面白いので引き受けた。ボンボン掲示板に返事書いてます。夫婦で、こんなのは初めて。ぼくのほうが一足はやく終わりました。

 ダラダラ書いたこと、お付き合いしたくれた人があったらありがとう。

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専門家「バカ」の自覚

 今日は、午前中、華光の法座の勧め方に関する疑問点や質問を含めて、相談があった。もちろん、個人の問題もあるので、ここでは触れられないけれど、とにかく、ぼく自身の法座や座談会、そして、華光の今後のあり方が問われる気がして、たいへん参考になった。確かに、最近の華光の法座は、若い人達やお同行さんでも座談の促進役の人を中心に、「カウンセリング、カウンセリング」と、よく言うようになった。別に、今に始まったわけではないが、以前は、先生方を中心に、少数の意識的に学ぶ人達たったのが、40年たって、昨今のカウンセリング(心理)ブームの空気もあるのか、座談会でもかなり浸透しているような気がする。しかし、華光会は、カウンセリングの集いではない。一方では、そのことに抵抗を感じる人たちもいる。座談会が、カウンセリングを学ぶ人達ではないと、関わっていけないような空気を肌で感じて、どことなく、参加や発言に不自由さを感じている方もおられるであろ。そんな方も、特定の人の法座ではなく、みんなの華光のご法座であり、求道者の話を聞くことの大事さも重々意識されているし、ご法にかける態度も、熱心である。これからの時代の要請、コミニケーション大切さもよく了解されているのである。お話を伺えば伺うほど、ぼくが感じていることと、同じことを話されていて、共感するばかりである。しかし、多少、学びの違いも明らかになる。それだからこそ難しくもあるが、ますますもって「よく聞き、伝え合う」ことの重要さを感じた。大切なこと、正しいと思っていることだからここそ、逆に怖い。「専門家バカ」と、自覚しているなら、それはいい。あたらしい気付きがおこれば、かならず失うものがある。よく見えるようになったうぬぼれがゆえに、見えなくなる盲点もあるのだ。しかし、バカがバカを忘れて、「賢者」とうぬぼれるのが、ぼくの自性。その意味でも、法水を浴びることを怠ったら、とんでもない方向にいきかねない恐ろしさをもっている。そんなことなどなど、教えられることの多い3時間だった。

 午後は、「8月の法座案内」の指示などの事務仕事を中心にすごし、夜は、増井自然(じねん)先生の書道教室だったが、8月の「仏の子供大会」の下見のための打ち合わせがあったので、時間をとられて、あまり書けなっかった。まもなく、「仏の子供大会」。参加者不足が気になるところだ。

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真カ研の月例会報告(3)

 そして、今月は、「変化への動機づけ」(7頁21行~8頁21行)の章で
◎第2の仮説:「個人はこの関係を利用して成長へと向かう能力を、自己の中に見いだすことができる」

*「成長傾向」「自己実現への衝動」「前進的指向傾向」
 すべての個人は、彼の中に、(明確ではないにせよ)、成長していきたいという隠れた能力と傾向を持っている。 適当な心理的環境を造りさえすれば、この傾向は解放され、可能性として止まっているより、姿を表してくる。 あまりにも脅威で無意識に追いやっていた経験も、理解する能力があり、彼のパーソナリティならびに生活への関わり方を、一層、成熟したと見なされるように再構築する傾向をもつことがうかがえる。

*すべてのサイコサラピーは、この傾向に依存している。
 すべての有機体、人間生活にみられる衝動=拡張し、伸長し、独立し、発達し、成熟したいという衝動。
→これまで何層もの殻を被った心理的防衛制御の背後に、深く埋められ、存在され否定するように隠れていただけ。→必ず、個人に内在し、解放され、表現される適当な条件を待っていただけなのだ。

 というのもであった。メンバーとともに、疑問点や感想を分かち合ったが、メンバーの中から、本文中に「自分自身になる」とはいかなることかという問いが生れたが、まさに、それが、「喜んで、自分の言葉、行動で、内在するいろいろな感情、態度を表現する」(純粋であり、透明であり、統合されている)ことであろう。また、それを「喜んで」他者にも持たせるという、「喜んで」というその表現が新鮮な気がした。

 それにしても、簡潔ながら、ロジャーズ理論の核心に触れ、その深い人間洞察と、その経験から導き出された仮説の重み、その真実性にあらためて深く学ぶ思いがした。ともすれば、「フン、フン」とただ聴いて、放任的な楽天主義の誤解をうけることもあるが、実は、ある一定の促進的な心理的態度を持つ雰囲気が備わるという前項が生きており、それを支える深い人間尊重、温かいまなざしがあるのである。それは他者にのみ向けられるのではなく、私自身が支えられ、自己尊重されていくのである。いつものことであるが、ロジューズの本文に直接触れれば触れるほど、その大きな共に、勇気をいただく。それを教えてくださった、西光先生の文章にも同様であり、その理想の高さに感銘し、胸が熱くなるのである。 

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真カ研の月例会報告(2)

これからは、本文の要約。これでけなら、面白味ないけどれね。まあ一応。

 「関係(The Relationship)」 (5頁16行~7頁20行)
 ◎前回の仮説「もし私が、あるタイプの関係を設定することができるなら、その相手の人は、その関係を使用して、自分の中に成長の方向に向かう能力を見いだすであろう。その結果、変化のプロセスと人格的発達が起こるであろう」(P5. L10)では、この 「あるタイプの関係とは」どんな関係かが述べられるのだが、それを要約すると、以下のようになる。

1)純粋、真実性(genuine reality)
*深層、無意識レベルと、みかけの外見の態度の一致-出来る限り自分自身の感情を知ることが必要だ。*自分自身になることを喜ぶ。喜んで、感情、態度を表現する。
→その関係は、真実味(reality) をもち、その態度によって、彼も内在する真実性をうまく追求できるようになる。
 私の態度が十分満足できない、よい関係に導き得ない時ですら、このことが正しいとわかった。純粋であればあるほど、この関係は援助的である。

2)受容(無条件の肯定的配慮)
*無条件に、ひとりの、価値ある人間として、温かい配慮もつこと。
 ひとりの独立した人間として尊敬し、好きになりことは、「喜んで、彼に自分の感情を思うままにもたせることを意味する」
 否定的であろうが、肯定的であろうが、過去と矛盾しようが、すべての変動する姿を受容し、認める。その関係のなかで、彼が、暖かさと安定感を感じる。
 私が彼を受容し、好きになればなるほど、この関係は援助的である。

3)共感的理解
*「彼がその瞬間に感じた感情や言葉を、そのままの形で共感したい」と感じる時に、この関係は、意味がある。受容と、理解を含まねば、あまり意味がない。
*「自由」:(意識、無意識で)触れたくない自己、その自己探究の困難さ(恐ろしさとか、弱さとか)などの感情や考えを、私が理解した時-彼が見るのと同じように、私も見、現在の彼を受容した時。自己探究したいという気になれば、いつでもという自由である。道徳的、診断的評価は脅威であって、自由ではない。

以上のまとめ
*援助的な関係とは私の側の透明さ(純粋、真実性)(その関係で、私の真の感情が裵表されている)*他人を、自分自身の権利をもった価値ある独立した人間として受容する。
*共感的理解-彼の私的な世界を私が、彼の眼を通して見るような、深い共感的理解。→以上のような条件のとき、私はクライエントの道連れとなり、彼と共に(恐ろしかった)自己探究の道を歩む。それは、彼自身も自由にしてみたいと気になっている。 
「必ず」:私が、この態度を持ちつづけ、彼がある程度このような態度を経験することが出来る場合には、「必ず」変化し、建設的な人格的発達が起こる。
というのである。

まあ、こんな程度で。これがもし少しつづきます。

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真カ研の月例会報告(1)

 ぼくが事務局長を務めている、真宗カウンセリング研究会の月例会が、毎月第3水曜日に、龍谷大学深草学舎の研究室で開かれている。世話人会を30分ほど開いたあと、会員限定の勉強会である。以前は、会員の発表や、西光義敞先生と「真宗カウンセリング」を深める会の要素もあったが、ここ数年は、原点に戻って、ロジャーズ論文を輪読するようになっている。西光義敞先生もお元気だったので、例の「必要十分な条件」の論文を輪読のために、お亡くなる直前まで、遠く奈良からお出ましくださっていた。先生が亡くなられて、そのまま自然消滅するかと危惧されていたが、亡き先生のご遺徳で、宣伝もしないのに、毎年、新会員がボチボチでも増えている。ただし、研究会に参加する人数は少し減った。それでも、新代表の元、参加するメンバーは、ぼくを含めて、先生の亡き後の方が、より積極的に関わるようになったのも事実だ。
 4月からは、ロジャーズ(ロージァズ)全集の「人間関係論」から、第1部の「いかにして、援助的関係をつくるのか」を読み進めることにした。まずは、第1章「人間の問題に関するカウンセリングによる一考察」である。
 前回と今回、ぼくが担当した。少し理屈ぽくなるけれど、レジュメをもとに書いていきます。

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改修工事、藤田嗣治展、そしてカウンセリング

昨夜は、子供の体調が悪くて、夜泣きしてなかなかたいへん。お母ちゃんには、いつもいつもほんとうにご苦労さん。で、これはこれで、ぼくが受けてきた父親の深い慈愛というか、安心感を思い出す機会となったのですが、大きなテーマなので、これはこれで別の機会に。

 朝のうち、華光会館の改修工事のために業者の見積もりがあって、いろいろの立場から、6名ほどが会館内を見て回られた。これは想像以上に、なかなかたいへんそうですぞ。その間に、電話相談というか、華光の法座の法の勧め方に関して、ご相談があって、明朝、その方に合う約束をした。これは、華光の法座の勧めかたにとって、大切な問題。カウンセリングマインド的に、傾聴したり、私メッセージで応えたりするのは、決して技法ではなくて、人間尊重の態度だし、またコミニケーションを大切にすることも、ほかならぬ相手も、自分も大切にすることだと思っているけれど、そのことよついていけない、反発される、いろいろな立場の方がおられるということだ。こんな時や、こんな人ほど、ぼくの態度が問われてくる。しっかり聴かせていただきますぞ。

 で、今日のメーンは、夜は、「真宗カウンセリング研究会」の月例会で、ロジャーズ論文の輪読。先月、今月と担当ですのが、レジュメは、先月つくっているで、簡単に読み返して準備はOK。で、夜まで時間をつくって、岡崎公園の、京都国立近代美術館へ。招待券いただきましたので、「藤田嗣治展」観ててきました。面白かった。けどね、たいへんな人。「お前ら、どこから湧いてくるね」んというぐらいの人々。かくいうぼくもそのひとりですが、いつもは空いている映画館、数えられるほどの華光会館の法座しかしりませんので、人込みに酔って疲れました。結局、空いている常設展に逃げて、ほっとひと安心。閉館前に若干空いてから、見てきました。

 やっぱり、図録とは違うわね。インパクトあります。初期のパリ時代、中南米と日本、そして戦争協力、さらに、後期のパリと、宗教画の大作。とくに、戦時協力での批判された作品群、戦時高揚というより、むしろ戦争の悲惨さが伝わってくる感じで、意外な印象。もちろん、大作もよかったけれど、箱や灰皿などの日常の小物に心ひかれるのでした。このあたりも意外性ですね。

 

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『不撓不屈』と『花よりもなほ』

「壮年の集い」の疲れもあって、昨夜は、子供と同時に早寝したおかげで、今日はfain。で、雨が降っていたけどれ、いつもごとく映画館へ。ただし、自転車は無理ぽかったので、地下鉄で「京都シネマ」へ。近くていい。駅と直結しているので、25分前に自宅を出てもOk。

 ぼくは、だいたい、9対1の割合で、邦画をみる機会が少ないけれど、なぜか先月も2本。「雪に願うこと」と、追悼上映会があった黒木和雄監督の「美しい夏キリシマ」を観た。そして、今日も2本とも日本映画。

 まずは、朝10時からの「不撓不屈」(今年76本目)。いやいや、とんでもないタイトルだ。いつもなら、パスするはずなのに、上映終了前に、ご縁があった。客層は、年輩の人ばかり。しかも、前売りや招待券の人が多い様子。で映画のほうは、江守徹のナレーションから、配役、音楽、脚本ともに、古くさい(正統な?)タッチでした。高度成長期を前に、国税局に楯突いて、零細、中小企業の節税に勤めたがために、見せしめのため、人権蹂躙的ながらせと弾圧、不当逮捕される冤罪事件だった「飯塚事件」を、家族愛をからめて取り上げあげている。「親方日の丸」の国税の非道なやり方に、隣のオバチャンがおもわず「もうやめてあげて」とつぶやいて、ゴソゴソしだしたと思うと、ハンドタオルを取り出して、ズルズル泣いておれらました。それほど、権力をかさにいばり、いじめられるわけね。でも、そんな非道な弾圧にめげず、信念を通し、真っ向から立ち向かって困難を乗り越えて、完全勝利をおさめるわけですか、そのプロセスでの家族との信頼も、こりゃすごいわ。苦難の父親に宛てた息子の手紙で泣かし、夫婦愛で泣かし、すごすぎー。完全勝利のあとも、「自利利他」の精神で、国家賠償を放棄してまで、さらなる理想に大きなる向かうわけですから。ハァー。立派な人がおったもんだなと、感銘したけれど、でもね。どうも面白みにかけたー。あまりにも完璧すぎる。現代の拝金主義に警鐘するなメッセージがわかりやすく、「これでもか、これでもか」と並べられると、滝田栄のピーンとのびた背筋が、最後にはしんどくなってもきました。逆に、中高年の客層が多いのが、分かる気もしたけどね。

 で、次まで少し時間あったので、shin-biを覗いで、「東京大学のアルバートアイラー」(歴史編)と、~あたらしい教科書~「学び」、そして内田樹著の「私の身体は頭がいい」の3冊を購入。ランチは「マノアマノ」で食べて、パラバラ読み。「東京大学~」は、かなり面白そう。

今日、2本目は、是枝監督の「花よりもなほ」(77本目)。時代劇(といっていいのかな。設定がそうだというけなんだけど)は、ほんと久しぶり。仇討ちをベースにした人情もので、忠臣蔵もからめたりするなかなか上質なコメディーというか、エンターテーメントもの。肩こらずに、楽しめました。超超,個人的に笑ったのだ、ニセの仇討ちで、ニセ死体を処分する案がでたとき、古田新太が、実家が寺なので大丈夫だと言って、宗派は「浄土真宗だ」と一言ある。なにか関係あるのかな。まったく本編と関係ないけれど、ひとりでクスッとしてしまいました。

疲れたのでこのあたりで。

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今、壮年の集いの飲み会

壮年の集いが始まりました。今年は、参加者が多いし、ご縁が新しい人も多くて盛り上がってます。

仏教はいかに、今生の荷物を軽くする。捨てる。家族、仕事、お金、友人、つきあい…。持ったら持ったで、罪をつくる。第一、修行の妨げになる。ところがね。浄土真宗だけは、在家止持。ここが有り難くて、難しい。真宗は、そのしがらみを通じて、自分を聞かせてもららい、聞法していく。ところが、今生にながされると、ただこの世のことで一喜一憂するだけでは、聞法にならない。その点は、壮年のみなさんは、それぞれのバックボーンを持った人達が、今生でのご法を喜べるタネをを抱えながら、聞法にも軸足をおいておられるので、最初の全体会、そして、分級座談の一言から面白かったな。

明日は、法話。半分、でたところ勝負。いまは、事務所で、裏飲み会。裏のわりに20名近くいます。みんな好きだな。仏法? それとも飲みこと?  ぼくはもう寝ます。

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明日から「壮年の集い」

明日から1泊2日で、華光会の「壮年の集い」である。

 北海道や東京で開催されたこともあるが、だいたい京都の華光会館で、今回が17回目。もともとは、仏教青年会の卒業後、自分の居場所をつくるために始まったものなので、当初は、30歳から50歳台と、一般の寺院の壮年会にくらべるとかなり、若手にも開いていたが、最近は、30歳前半のものは仏青を中心にしてもらって、少し年齢も後ろに幅広く持たせている。

 土曜、日曜になることが多かったが、今年は、日曜、月曜だ。ということで、午前中は、土曜日にしては、珍しく行事がなかったので、週一度通っている、「自力整体」の教室で、レッスンを受けてきた。最近、長女の元幼稚園の保護者に勧めたら、けっこう始める人が多くて(贅肉がとれるというと、みんな乗って来るな)。この教室は人気で、手狭だけど、主婦が多い分、土曜日は空いている。本格的に初めたのが、7月からなので、ちょうど丸5年たったことになる。まあ自力整体のことはおいおいと語ることになろうが、どんなに多忙でも(いや多忙の時ほど)、毎朝20分間の呼吸法と、最低週1度の90分は、自分の身体を整え、内面に目をむける、ぜいたくな時間をすごしている。今日は、伏見の大手筋の教室だったので、終わったあとは、いきつけのカフェで、ランチをして(ここのコーヒがうまい。レギュラーでなく、エスプレッソにしてもらいってる)、金子大栄著の「四十八願講義」を読んだ。碩学の大先生、どうも凡人のぼくには理解しがたいの感がある。

 で、帰宅して、法話の教案を考えることにした。素材はいろいろありすぎで、まだ迷っている。ひとつは、先日、お断りした葬儀の依頼と、死んだ人ではなくて生きた人中心に集いであるテーマで、またひとつは、子供大会のテーマの「人間の値打ち」にからめること、さらにもうひとつは、東京支部のNさんのかかれた案内文と、ぼくの華光誌の誌上法話にからめて、「よき人」というテーマもある。いつもそうだがら、一時間程度で、濃厚で盛り沢山すぎでも、聞き取れるのは、7%すぎないのだから、もっと材料を絞るべきべきだけれど、いつも、欲張りすぎるきらいがある。とはいっても、連休前に、会長(雑用係)をやっている町内(自治会)の配りものや集金もあって、教案は、ボチボチといったところ。まあ、明朝考えることにして、今回はわりと楽天的。いつもここから直前に焦ることもおおいけど、絞り込む作業なので、わりと安心しているのかな。

 夜には、京都支部を中心に、お掃除のお手伝い。8名の方が頑張ってくださった。そのあと、高山のKちゃんたちと、分級座談(グループでの話し合い)ための、メンバー分けをした。壮年の集いは、法話よりも、座談会(少人数のグループ)が中心でなる。でも、そのわりに今回は、60名以上の参加があって、四グループにすると、16、7名が1グループになってしまう。少人数で、じっくりとはいかないようだけれど、それぞれ、初めての方も多くて、名札を観ているうちには、こころは、スタートの合図が待ち遠しい。 明日は、夜行バスで、早朝6時30分に世話人1名が到着。11時から、世話人の打ち合わせだ。お世話のみなさん、よろしく。

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今夜はゲーム研修会

今夜は、日曜礼拝の若い先生方を集めて、ゲームの研修会を開いた。もちろん、テレビゲームでも、コンピーター関係でもない。声と身体を使い、人とふれあっていく正真正銘のレクレーションゲームだ。

で、 みっちり、3時間。このところ、京都の日曜礼拝のゲームから一線を離れているので、年に数回程度しかしないけれど、こんな長時間は久しぶり。疲れたけど、とても楽しくもあったね。

司会ゲーム、歌ゲーム、ジャスチャーゲーム、アクションゲーム、対抗ゲーム、グループ分けのためのゲーム、静めるゲーム、罰ゲーム、円形ゲーム、座布団ゲーム、野外ゲーム、創作ゲームetc.

久しぶりでも、「昔とった杵柄」ですわ。ひとつのゲームをすると、次々と引き出しが開いて、次のゲームが飛び出る感じ。おかげで、最初は、関心していたみんなも、最後の方は疲れてきて、ついてくるにやっといった感じになったけど、ほんの一部でも、ワザを伝授できたんじゃないかな。

年齢や性別に関係なく、ワイワイ騒ぎ、笑い、大声をだし、時に頭を使い、そして指先や手を使い、いわば身体全体を使って、他人と触れていくのっていいもんですよね。若い先生方から、子どもたちへと、実践を通じて伝わっていくといいよね。

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今日からスタート

 さて、華光会のHPのリニーュアルにあわせて、ぼくのブログも、今日からスタートすることになった。日頃から経験し、また味わっている浄土真宗の法座活動の実際について、ボチボチで触れていこう。それが、華光会の活動の一端を知ってもらうことにもなるだろうし、ぼくなりに、これまで経験してきた浄土真宗の実践的な法座活動の姿を明らかし、分かち合うことで、よりよい法座を創造に少しでもに役立つかもしれないと思っている。

といいながらも、今日観てきた映画の話、聴いた音楽、そして刺激を受けた人や本など、「真宗法座」という言葉に、からめ捕られすぎないようにして、ぼく自身の関心のあることから話していこう。

  まあ、最初は、この程度からね。

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