今日は、珍しく、まったく初めてお会いする人のご示談を引き受けた。基本的に、華光のご法座のご縁のない人は、まずご法座に出席してもらうことからはじめている。今回は、ご夫婦で華光同人で、そのご姉弟さんであることと。電話でお話したら、ここ数日、食事ものどをとおらず、夜も眠られないほど、後生が苦になっておられること。それでいて、お寺でのご聴聞はそれほど経験がないとのこと。緊急の依頼だったこともあって、獲信どうこうではなくて、聞法の道筋をつける意味でも、一度お会いすることにした。
今朝になって、「そちらで宿泊もできますか」とのこと。解決までは泊まりこんででも聞くという覚悟のようだが、「今回は、リラックスしておいでください」といっておいた。少し遠方で、ご主人の車ということもあったがら、約束の時間より2時間も早く到着された。すこしお待ちいただいて、研修場で対座した。かなり力がはいっておられる。緊張にくわえ、かなり焦っておられることがひしひし伝わる。
というのも、おばあちゃんが、ある知識のご縁をいただかれ、そのご縁で、お母さんも獲信され、つねに「人間に生れて、獲信せねば、石や草とかわらない。後生は一大事。自分の悪業で恐ろしいところに行くぞ」と、子供の時から、育てられておられた。しかし、たよりの知識が亡き後は、どのように聞いていったらよいのか、またどのように伝えたらいいのかわらなぬまま月日が流れたが、「こころの時代」放映をきっかけに、ネットを通じて、弟さんが華光に出会われ、後生の夜明けをされた。そのうえ、今年になって、まだ若い兄弟のひとりが急死され、その法事の席上で、お母さまが、「後生の一大事」の大切さを、コンコンと説かれたそうだ。それから、いてもたってもいられず、「こんな根性の悪い奴でも頂けるのか」「自分の思っている以上に、恐ろしい世界があるのではないか」と、考えば考えるほど、家事も手につかなくなられたようだ。
後生の一大事は、急がねばならない。しかし、焦ることではない。どんなに自分をおいつめて、わが胸をながめ、結果を焦っても、それでは聞法ではない。もし獲信が、単なる心理操作や超常現象のたぐいなら、これを機に追い詰めていけばいいのだろうが、真宗はそんなものではない。地獄行きのわが身と、その地獄行きの身にかけてくださったお慈悲を聞かせてもらわなければ、なんの意味もない。「ほしい、ほしい」「なんとかしたい」の人は、追い詰めるのではなくて、すこし冷静に落ちいてもらわないと、聴ける話も聞いてもらえない。
で、こちらからでfなく、大方の時間は、いまの心境や、こころにかかっていることなどを話ていただき、受容的にゆっくり聞いていくうちに、焦りもおさまり、いままでだれにも話せず、こころに秘めて重荷になっていた自分の醜い姿、罪悪の姿を、具体的にお話してくださるようになった。これは詳しくは述べられないが、その姿を通して、自分をかなり見つめておられるようだ。でも、こんな性悪の心では、頂けない、信じられないのではないかと悩んでいかれた。
それで、それがまったく逆であることだけをお伝えした。自分がいただくとか、信じるのではない。アミダさまのほうが、先手をかけて信じてくださっている。罪業を抱え、裸で生れてきた私をいとおしく、命懸けで育ててくださっている。その命懸けの慈愛にふれさせてもらって、ご恩をご恩とも思わないのも、下がるはずのない頭が下がるという不思議な仕組みを、仏さまが、食べるものとなり、着るものとなり、憎い人にもなってくださっていることを、具体的に諄々とお話させてもらった。
すると、「まったく聞き違いをしていた。反対だった。バカものだ」と、涙で懺悔されだした。それで、別に念仏を勧めるのではなく、お念仏のおいわれをお話して、一緒に静かにお念仏をさせていただい。いただくとか、獲信とかではない。なにを、どう聞かせていただくのかの、聞法の道をつけさせていただいただけだ。焦って、追い詰めて聞くご法ではなく、常に願い、かかっているお慈悲に心を寄せて聞かせてもらうだけなのだ。そう、「聞く」ことがなければ、始まらないのだ。でも、それが難しい。しかし、それだからだれも聴けるのだ。
引きつった緊張と、不安の表情が、やわらかな晴々した笑顔で、帰路につかれた。ほんとうの意味での、獲信はないだろうが、ひとつの聞法の方向が定まったのではないか。さっそく、あさっての日曜日の大阪支部法座にはお参りされそうだ。南無阿弥陀仏。