宿善の機は捨てもの
法座のあとの懇親会で、求道中の方が、「『宿善を捨てる』ということはどういう意味ですか?」と、質問された。
先輩同人にそう言われたというのだが、「宿善は積むもの」だと思っていたので、さっぱり意味が理解できないという。それで、質問に即答する前に、いまのご心境を尋ねてみたいと思って、
「阿弥陀様を疑っていると思いますか」と、尋ねた。
「いいえ。もちろん、私は信じています」とのお答え。
もしその程度のご聴聞なら、この問いかけを理解するのは、難しかっただろう。
真宗の信疑廃立の疑いは、世間的な「信じている」「信じない」という相対的な信ではない。他力回向の信は、私が確かだと絶対に信じる信でも、「ほんとうな ? 」と疑問いだくことを疑いというのでもない。「私が信じる」ことを根拠している限りは、無根の信とは言い難いのだ。「南無阿弥陀仏」まことに出会って、迷いのたましいの葬式がすまないことには、どんなに強く信じている訴えても、疑い=自力のはからいで、弥陀の本願をはからっていることになるのだ。
とはいっても、この方は、まだそこまで一足飛びにいきそうにはない。それで、理解を得るために三つの心(黒い心、白い心、暗い心)を説明して、『念仏の雄叫び』の暗い心のところを読んだ。
「暗い心というのは、このもらいものの「白い心」を、自分の側で製造しようとする、大それた心です。暗いというの、後生に向かって暗いという。この暗い心は、真剣に求道聞法しないと気付かない。また問題にもなってこない。自性の黒い心にきづかされてくると、因果応報のどうりで、今まで問題にしなかった地獄、後生が問題になっくてる。また遠くに眺めていた無常も、身近に感じられるから、「後生は?」となると、不安な心もでてくる。それで、なんとかしようと、お救いに手をです。しかし、安心ができない。だから、なお計らいをつのらせる。それでこれを「後生難儀の機」とも 、「本願疑情の機」ともいう。つまり疑いの心です。それゆえ、「捨てもの」といわれるます。
反面、これを「宿善の機」ともいうのです。疑い、計らい、自力の心ともいうのは、捨てものなのに、なぜ宿善の機というのか。はじめに、真剣に聞法求道せぬと、気付かないと申したように、この暗い心が、心配になり問題になるまでには、随分とお育てのお手間がかかっている。私の性得(しょうとく)の黒い心というやつは、お救いなんて問題にする心でない。「仏法を聞こう、後生が大事、信心や念仏じゃ、これでいいのか、どう聞けばよいのか」などと、殊勝にしんぱいする心など、ツユ持ち合わせてはない。それが苦になる心が出て来るから、宿善の機というのです。
「どうぞ、聞いておくれ、どうぞ、どうぞ」の仏願が、無漸無愧の悪魂ににじみ出、浮かび出てくださった心です。とても、私の甲斐性で知られたのものではないのです。それだのに、そこを思い違いをして、お育てのご恩を横取りにして、なんとか晴らそうにかかる。それで、また「捨てもの」ともいわれる」
そして、そのあと、黒い心、白い心の二面に働きかける暗い心の働き、仏敵の心について詳細にお示しされるので、よく熟読ください、とお話したら、
「いろいろと捨てるものがあるんですね」との感想。
いや、捨てるものはひとつしかない。自力の心というのも、宿善の機というのも、疑いというのもは、そして暗い心というのも、ひとつである。でも、そのたったひとつのしぶといしぶとい仏敵のために、「私は信じています」の心で、南無阿弥陀仏を疑い続け、迷いに迷ってきたのである。
これは、『念仏の雄叫び』の「宿善を捨てる(P159)」の項目にもあるのだが、この心こそ、私の聞法、求道の原動力のようなものだから、それを捨てることはま,ことに惜しい。だって、念仏や聴聞を捨てたら、地獄に落ちねばならないのだものなー しがみついていたい。でも、自分の都合や手柄はよく見えるけれども、そのおおもとの阿弥陀様の願いは、まったく無視して、いつも自分の都合で考えることができないのである。
実はその心こそが、わが心をあてにしている自力心なのだ。
「自力のこころをすつというは、ようよう、さまざまの、大小聖人、善悪凡夫の、
みずからがみをよしとおもうこころをすて、
みをたのまず、
あしきこころをかえりみず、
ひとすじに、具縛の凡愚、屠沽の下類、無碍光仏の不可思議の本願、広大智慧の名号を信楽すれば、煩悩を具足しながら、無上大涅槃にいたるなり」。
と、親鸞さまも仰るが、どこまでも、自分の「よかった、悪かった」に固執し、そのこころで弥陀の本願を聞いているのである。
「有り難いお念仏が溢れて」よかった。
「阿弥陀様のご苦労が身にして」よかった。
「またっくシラケた心しかないから」ダメだった。
「熱心なお勧めなのに念仏がでないかったから」悪かった…と、
結局、阿弥陀様の尊いお心に触れても、なお自分の「よかった、悪かった」とやっているだけだ。実は、有り難くなろうが、しらけようが、「私」が判断しているすべてが、まったく役に立たない自力の心だとお聞かせに預かっていくしかないのだ。しかし、立派な、ハッキリした信心をいたがねばと、阿弥陀様のご苦労を足蹴に頑張っている。その頑張っていることこそが、地獄行きの自己の値打ちを忘れた邪見驕慢の姿にほかならないのである。
「邪見驕慢の悪衆生
信楽を受持すること甚だもって難し」。
私の力では自力は捨てることはでいない。血は血で洗えないのである。つまりは、絶対に私は聞き開けることはないのである。
ならば、「どう捨てるのですか?」と、質問する暇があるのなら、小さな喜びや信心にしがみつかずに、真っ逆様に落ちていくのだ。
それが、宿善を捨てることじゃないのかなー。
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