聖典講座・真身観(2)「念仏衆生 摂取不捨」

(二)次に、無量寿仏の光明についてである。 「また八万四千のすぐれたお姿があり、その一々に八万四千の細やかな特色があり、その一つ一つにまた八万四千の光明がある。 その一々の光明が、十方世界をくまなく照らし、念仏の衆生を摂取不捨してくださる。その光明・相好・化仏の詳細は説き尽くせないので、心眼を開いて明かにすべしだ。」 ここで大切な御文が、 「光明遍照 十方世界 念仏衆生 摂取不捨」 (光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず) である。これは浄土門の教えでは、金言といっていい一文だ。「空で覚えてください」と皆さんに申した。 「摂」は、多くのものを取って離さない。「取」は、しっかりもって離さない。「捨」は、持っていたものを手放すことなので、「不捨」はその強調の否定である。要するに、念仏する衆生を大悲の光明に摂め取り、決して捨てられないのが阿弥陀様のお救いだという「摂取...

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聖典講座・真身観(1)~なんと大きな阿弥陀様だが…~

 定善十三観もいよいよ今回は、その中心である第九観の真身観である。顕(表)の立場からは本経の中心となる観法だ。善導様は、第八観から正報観(阿弥陀仏や聖衆方の観法)となると御覧になられた。しかし直ちに阿弥陀仏を真観するのは難しいので、その前段階として御仏の姿を写した仏像を観じる仮観(方便観)が説かれた。「黄金に輝く仏像が、極楽の七宝の蓮華の上に坐しましますのを、はっきり観想する」という像観が成就したら、いよいよ阿弥陀仏のお姿と光明を観察するのである。 (一)まず無量寿仏の身相(お姿)である。 「身は、黄金に輝き、身長は六十万億「那由他」(一千億)「恒河沙」(無量)「由旬」(七㎞)  眉間の白毫は、右にゆるやかに旋り、大きさは五つの須弥山(=一世界)。  仏眼は、大きさは四大海水のように広く、青白澄みきっている。  毛穴からは光明を放ち、須弥山のように大きい。  円光=頭の後ろの光輪(頭光)は...

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この世のことはなんとでもなる! ?

修繕工事のための2回目の打ち合わせ。監理のM先生と、施工業者を交えた相談。個別に、それぞれの担当の業者が次々と出入りされていく。照明や電気工事関係に、給湯器の方、塗装屋、そして建具屋、畳屋、最後に、別件での電話やPC配線などなどである。 まったく一からの仕事ならば問題はないが、この場所で、事務活動や生活をしながらも、並行した全面改装をするのだがら、想像以上にたいへんなことになっている。床や壁をすべてやり直すとなると、すべてを移動しなければならないのである。塗装などは一度にやらねればならない。畳や襖は、ここでの作業なはいが、その間、外されてしまうので、使用が出来ないなる。講習会が終了した翌日に、道場の畳をすべて引き上げることは決まった。 1階の事務所は、2階の教室に移ることになったが、そのためにはPCの配線工事も必要になる。引っ越しも、いつどのタイミングで、どこにどのくらい収納できて、また動...

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華光誌輪読法座

  華光誌輪読法座、同じような顔ぶれだが、少しずつ新しい人が増えたりしながら進んでいる。   伊藤先生の『仏敵』の聞法旅行の法話から、「本願の実機に遇う」の後半。華光の特色である、「捨てものと拾いもの」について。三つの心(黒い心、暗い心、白い心(明るい心))などもでた。ここは知識で知るだけなく、体験的にお聞きしたいところである。捨てものの、暗い心を、厳しく問うこ法縁が少なくなってきた。   伊藤先生がそうであったように、本願に出会った喜びか、お同行からお同行へと伝わってきたことの尊さを想う。私は、自分だけが助かったらいいとう利己的な心しかない。その塊といっていい。その意味では、信心の世界とは真反対の奴である。しかしそんな泥凡夫の上に、南無阿弥陀仏の真実は光輝く。その凡夫の喜びを通じて、いやそこからしか仏法は伝わってこないのである。伊藤先生の獲信の場となった野口...

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広島廿日市での支部法座

福岡の家庭法座に続いて、広島での支部法座。一年に一度、廿日市での法縁である。 廿日市で開催するから、ぜひ参加頂きたい方もあったが、残念ながら不発に終わる。それでも、広島市内だけでなく、尾道や福山、安芸高田などの離れた地域からもご参加くださった。 しかも、今回、しみじみと尊く想ったのは、母と娘で参加された方が、3組あったことだ。そのうち、娘さん(しかも姉妹)がお母様を誘ってお参りくださった方が、2組である。しかもその両方が、そのルーツは熱心な祖母(もともとは華光ではなかった)ご縁から始まる。それが、隔世遺伝(?)、母親よりも、その娘(孫にあたる)さんに、先に届いたところが有り難い。熱心に家庭法座を開きお世話をしたり、または善知識に師事して聴聞に励まれていたという。その陰徳が、お孫さんの仏縁として華開いたのであろうか。 そしてそれが逆方向に、娘さんから母親へとの仏法が逆流するのである。その想い...

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県立広島美術館~サヴィニャック展~

午前中、県立広島美術館まで歩く。広島駅からなら1キロほどだが、ホテルからだともう少しある。ひろしま美術館には行くことがあるが、こ こは縮景園に行った時に通っただけで,初めてだ。 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/01/post-4de3.html  今日まで、サヴィニャック~パリにかけたポスターの魔法展を開催していた。   http://www.hpam.jp/special/index.php?mode=detail&id=194 サヴィニャックという名前を、ぼくは知らなかった。が、その作品には、これまで何度も目にし たものがあって、驚いた。知らぬ間に、彼の作品が身近にあったらだ。「パリにかけたポスターの魔法」という副題があるよう に、フランスで、広告ポスターを一新させた人物。ダンロップ、ミシュラン、シトロサンの よう...

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57歳

福岡法座は夜座はなくて、しゃぶしゃぶ「あり田」での懇親会になる。 お参りは多かったが、懇親会への参加者は少なく、また酒を飲みのも4名だけだったが、おいしい料理を頂き、またずいぶん飲酒(おんじゅ)の罪を犯し、盛り上がった。 宴たけなわで、突然、電気が消された。「あれ?」と思ったら瞬間、 「ハッピーバースデー トゥー ユー~~」の歌声。いや、こんなの久しぶりです。誕生日前後に、仏青研修会があった頃は、こんなこともありましたがね。はまったく予想していなかったサプライズでのバースディー・ケーキ。3時間ほど早かったですが、 びっくりしました。それにしても、ちょっとロソークは多すぎかなと、、。 翌々日帰宅したら、今度は連れ合いからのお祝い。こちらは、ちゃんと57本。 誕生日の前と後でしたが、お祝いうれしかったです。ありがとうございます。

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福岡家庭法座~今、目の前いるあなたに~

博多での家庭法座である。1月と7月の年に2度、会計事務所と、自宅での法話会を持ってくださっている。今年は、2月の連休中の開催。 この家庭法座が始まって、丸10年が経過したという。2009年で、悟朗先生を招かれたのが、初めての家庭法座。その後、体調が悪くなってからは、小生がお世話なっている。 事務所で昼座は「人生の実相」と題した法話。翌朝はY先生が1座されたが、王舎城の悲劇を『観経』に沿って、特に韋提希夫人のお救いに焦点を当ててご法話くださった。愚痴の女人のお救いである。最後に、昼座では、「苦悩の有情」のお救いを、3つの身近で起った具体的な例話でのてお取り次ぎ。老・病・死に、愛別離苦、怨憎会苦の実情を話した。事前に、打ち合わせをしたわけではないが、結局、阿弥陀様の真実の眼に写った、アミタ様本願に願われている機無(私の側に真実のかけらもない)の実際を聴いてもらったことになった。助かる手がかりを...

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仏書に親しむ会~一歩出よ~

 『非僧非俗のこころ』の最終回。1章ずつ細切れではなく、少しまとまった形で読むことにした。 「大悲の呼び声」~「どこに華開くのか」~「宝海の大きな働き」そして「大きな使命」と、最後に「追記-増井悟朗先生の言葉」までである。  最後のところに、「自分の中だけで喜んでいるようでは、やっぱりダメです。華光は華光を出なアカン。かりもんはかりもんを出ないとアカンと思います。それだけのものを聞かせてもらった。流れを汲ませてもらった者の使命があると思います」とある文を巡って、「出るということはどういうことですか? 説いていけということですか」との質問。そこを皆さんと分かち合う。  この小冊子、タイトルとは別に、あっちこっちに「一歩出よ」と書かれている。何かを得たり、体験や経験をすると、すぐにそれを取り込み、またそこに胡座をかいて留まってしまう。安定したいのが私の自性である。つまらない体験ほど、後生大事に...

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東海支部法座~人生の実相~

新聞記事の関係で、早めにテーマ(演題)を出している。そのときは、「人生の実相」の気分だった。しかし1ケ月もたつと思いも変わる。読んだ本や阿満先生の講演などの刺激を受けて、法話といより、何か訴えずにおれない別の気持ちが動いていた。とはいっても、新聞を見てこられた方もあったので、テーマ通りで法話をする。 元日の修正会での法話でも話題にした、ルーマニアの昔話である。 人間は20年の寿命だったのを、ロバの寿命を30年、イヌの寿命の20年、そしてサルから寿命を30年もらった。100年に伸びて大喜びしていたのも束の間、万物の霊長としての楽しい時期は若い時だけで、その後、馬車ロバのように暑い日や寒い日、雨の日も関わらず、朝早くから夜遅くまで、仕事に勤しまなくはならなくなった。時に、過労死したり、精神的に追い込まれたりしながらも、粗食や貧乏に断えて必死に働いていく。その結果、40~50代ぐらいになると、家...

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京都家庭法座~凡夫といふは~

凡夫というと、すぐに煩悩具足の凡夫、罪悪生死の凡夫という言葉が結びつく。罪深い、愚かな、どしようもない者というイメージだ。 しかし、もともと凡夫とは、仏道修行の段階で十地以上の菩薩、つまり聖者と区別して使われるものであった。 菩薩の五十二段の階位では、最初の仏道の初め、発心し歩みだす十信の位が「外凡」で、さらにの十住、十行、十回向が「内凡」とか「三賢」といわれる位である。ここまでは仏道を歩んでいてもまだ聖者ではない。そこから「初地」に入ると、十地位からが菩薩と呼ばれるようになる。広い意味では、仏道の始まりも菩薩ではあるが、厳密には「初地」からが菩薩で、そこから等正覚(弥勒菩薩)、妙覚と続いて、仏果を得るのである。 しかし、仏道修行の一歩も踏み出せないものはどうなるのか。善導様、法然様の浄土教によって、一大転換が起る。善導様は、『観経』韋提希夫人を、仏道修行に耐えられない、実凡夫(「汝是凡夫...

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南无阿彌陀佛

 同人の方が新しくお墓を建てるからと、「南无阿彌陀佛」の揮毫を頼まれた。  本格的にお名号を書くのは初めてだ。しかも墓石に刻まれるとなると責任重大である。字体はきっちりした楷書で、「無」は親鸞聖人の使われている「无」、「弥」も同じく「彌」の字にした。  長年、父に指導してもらっていきたが、師匠がすごいだけに、どことなく自信がない。それでいながら、実力以上にうまく書こうという計らいが起る。うまくいけていると思うと、途中で緊張し力が入ってしまう。それでいて、出来たと思って張り出して距離を置いて眺めてみると、そうでなかったりもする。その意味では、最初に書いたものがノビノビとした力強さがあるが、如何せん、一字一字のバラスンは悪い。後ほどきれいにまとまっているが、どこか力強さや勢いが消えている。並べて張り出すと、「南」はこれ、「无」はこれと、切り貼りしたくなるが、たぶんそうしても全体としてはバラバラ...

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«念仏者九条の会~憲法『第一章 天皇』と『第九条 戦争放棄』今、改めて問う」~(2)