「国宝一遍聖絵と時宗の名宝」

「踊り念仏」で有名な時宗の一遍上人の展覧会である。一遍上人は、別名「捨聖」とも呼ばれた。特定の寺院に止まらず、もちろん宗派を開かず、財産もお聖教も捨て、ひたすら全国行脚(遊行)して、身分の隔てなく念仏札を配り(賦算・人々の念仏を結び、極楽往生できるという証)、踊り念仏を勧めるご生涯だった。  あまり時宗には詳しくないが、このブログでは、ウド鈴木が演じた映画『一遍』のことや、別府地獄を鎮めたいわれで時宗のお寺におまいりしたとき、踊り念仏をご縁にあったことなどが、直接関係する話題。 http://karimon.cocolog-nifty.com/blog/2016/11/post-676e.html  さて今回の見どころは、国宝の「一遍聖絵」。法然展など、何度か観たことはあるが、前後期を合せて「一遍聖絵」が全巻展示される。たいへん詳細を描写で、当日の風物や時代が偲ばれる逸品だった。  個...

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『仏敵』を読む(1)

 今月の「仏書に親しむ会」から、求道物語『仏敵』を輪読する。『仏敵』の初回ということで、輪読初参加の方もあり、久々に二桁の参加者。  初回なので、悟朗先生の「あとがき」から読む。その後『仏敵』の構造、時間軸を基にして流れを説明した。  〈大学生の体験と筆〉 伊藤先生は、この時、大学2回生の春休み(3回生になる)ということである。 しかも、野口道場での聴聞は、5日足らず。全体としても(4章の回想部分を除く)、その春休みの出来事を綴った書物で、その回想部分を遡っても、2月下旬から4月にかけて、極めて短い間の出来事を綴った、求道物語だ。。 そしてその1年後は、「仏敵」の原型が出来たという。つまり、伊藤先生は、大学生で、これは青年(学生)の体験であり、大半は、学生時代の筆によるのだからら、また驚きである。 〈伊藤青年は「善き知識」を求めていた〉 第4章に、野口道場での衝撃を癒すために、夜に外出され...

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大きな宝

 法座が終わったら、「先生、となりの集落ですが、ぜひ、うちにもよってください」と誘われた。今は、生駒におられる同人のご実家である。急な話だったが、とても熱心に誘われた。なぜか車3台でお邪魔することになった。  当家の主に「初めまして」とご挨拶したが、初めてではないことを思い出した。この方は、子供大会にも、仏青大会にも参加されている。そのお子さんも奥さんも、子供大会に参加されていて、実はよく知っている方であった。先代にも、先々代とも、華光とのご因縁のあるお家だ。いまは、疎遠になっているので、そのために引き合わせたいという、お気持ちであったようだ。  それにしても、立派な仏壇である。それだけ、ご法に篤い家である。在家でありながら、男の兄弟が複数あれば、誰か一人は、必ず得度されるという。いまでも、ブラジル開教師として、ブラジル総長にまでなられたのも方も、ここの方で、彼の地でぼくの子供たちもお世...

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空閑処での聞法

 お経に、「空閑処」という言葉がある。心静かに、仏道修行に励む場という意味である。その言葉がぴったりな緑豊かな地で、ご聴聞の機会をいただく。   高速道路網が拡がり、時間は短くなった。幹線道路から離れると、一気に山の中に入っていく。対向車もほとんどない。村落に入ると、細い山道の向こうに本堂の屋根が見えている。今は檀家数も減った山寺だが、鄙びた山里にこんな立派なお寺が建っていることに、信仰の篤さが窺える。しかも、ただ建物があるだけではない。過疎が続くといえ、お念仏の相続がある。  あいにくの天気だったが、逆に、雨に緑が映え、霞がかかり、また別の風情がある。  「すばらしい場所ですね」とか「こんなところに住むのは贅沢ですね」などという。といっても、所詮、たまに旅行や観光で訪れて「いい」と言うのであって、やはり都会の便利さは捨て難いのである。いい加減なものである。  それにしても、長年に渡って...

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ブラジル移民111周年記念

朝、ブラジルの子供たちとスカイプ。ちょうど12時間の時差がある。ブラジルは日本に前日の夜だ。 お寺あるカラオケ大会の練習中。立派な講堂(舞台付)で、順番にリハーサルがある。二人も参加するので、練習の様子をライブで伝えてくれた。日本の裏側で、日本語の歌が披露されている。なんとも不思議である。 同時に、ブラジル移民111周年記念事業の一環のポスターを送られた。ころがサンパウロの街角に貼られているという。小さな時から、日本の古風な文化が好きな彼女は、ブラジルで日本舞踊を習っている。かなりの高年齢の方ばかりの中で、ひとり平均年齢を下げている。古風のことが好きなだけに、お年寄りも好きである。 センターの白拍子が、長女。ブラジルの街角に貼られてると思うと、また不思議な気分。  ...

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『法然上人行状絵図』(1)

 3年間かけて、法然聖人の『選擇本願念仏集』の講読を受講した。途中(第4章)からの参加で、一番大切な第一章、第二章、第三章が聞けなかったのは残念ではあるが、ひとりで講本を読んでいるよりも、直接、講義をお聞かせいただくことは、意味が深い。文章にはならないつぶやきや雑談に、興味深いことが語られたりもするからだ。その後に、講義本を読むと、このように訳してあっても、別の解釈(訳)や背景があることが、よく分かるのである。  今年から、『法然上人行状絵図』の講読が始まった。別名『四十八巻絵伝』と言われるが、法然聖人やその門弟のご一生を詳細に記述した絵巻物で、原本は国宝に指定されている。さまざまある法然上人の伝記の中でも、決定版である。全四十八巻、253段もの長編で(現存する絵巻物では最大といわれる)、「絵伝」なので、色彩鮮やかな詳細な描写が描かれている。何度か、博物館で現物を見ているが、絵画もすばらし...

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ご示談

 先週の真宗法座の集いでも、未消化のまま終わったのだろ。  ただ聞くこと一つ。こんな易しい御法はない。しかし、そのたった一つが、難中の難である。  対峙する二人が、共に苦しい時を過ごした。  「ごちゃごちゃ言わずに、ただ称えさせてもらいましょう」  「機を詮索は無用。ただ、法の手強さを仰ぐ一つ。凡夫は、なんのわずらいもなく、ただただおまかせしていきましょう」  「求道などないのです。ただ仏さまの願いを聞くだけです」  これまでぼくか、法座や真宗者の方から、どこかで聞いたことがあるフレーズだ。  しかし、それらは、ぼくがこれまでお聞かせに預かってきた浄土真宗の肝要ではない。いや、似て非なるものだといってもいい。たとえつらい道ののりでも、たったひとりでも、この一大事を突破させてもらう。納得するのでも、言い聞かせるのでも、心の安らぎでも、念仏や体験を握ることでもない。誤魔化さず、真摯にまことを求...

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高山法座は篤かったか?

  暑かった高山法座。ぼくが初めてこの地で法座をもたせてもらった20数年前、各家庭にクーラーなどなくても、夏でもしのぎやすかった。それが、F家でも、1階にも、2階にも、クーラーが設置されていた。  5月というのに、この異常高温である。この地でも、週末は、両日、33度くらいまで気温が上がり、暑かった。しかし。最低気温は7度しかなく、寒くて暖房を入れたという。朝は暖房、日中は冷房、寒暖の差が激しい週末だった。  では、気温に負けず、座の内容は篤かったか。新潟や富山の皆さんのおかげで、なんとか暑い法座となった。しかし、高山だけなら、、。現状に満足せずに、ぼくはこれらかも、いろいろな分野で学び続けたいと思っている。どうか、皆さんも、まだ老け込まずに、ついてきてください。この地にもそれだけの先達の尊いお働きがあったことは、ご承知のとおり。  ならば、仏法を大事と思うのなら、どうか自らをひき破り、鼓舞...

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さよなら、やさしい愛妻号

 数年前から兆しはあった。  やさしいといっているのに、地震かと思うほどの振動。もしかして、爆発するのかと思うほどの爆音。  それが、この1年、洗濯時間が表示より、2倍、その後3倍(45分とあるのに2時間でもまだ無理)とかかるようになった。水がチョロチョロしか出なくなったのだ。会館修繕時に、電機屋さんに見てもらったら、もう修理が難しいとのこと。まあ、時間はかかっても壊れるまではということになったが、もうアッという間に壊れた。  公演があったので、その間は、母のところの洗濯機にご厄介になって、この度、購入を決めた。  製品は連れ合いが選んだ。そのあと、ネットで調べ、量販店で調べて、損をしないように考える。これがなかなか曲者だ。値段が安く、配送料無料とあっても、設置料がべらぼうに高かったり、リサイクルの引取運賃が高かったり、逆に高いようでポインで割安だったりと、例によって心を悩ませた。結局、総...

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現代に『往生伝』は有効化か(2)

    まあ、それがだいたいの要旨ではあるが、ぼくも最後にいくつか発言した。 一つ、浄土真宗では、江戸時代から明治期にかけて、『妙好人伝』が編纂されるが、浄土真宗の教義を逸雑する形で、臨終の奇瑞や臨死体験(蘇生)、死期の予言、来迎などが取り上げられたり、その人物像も、苦難を乗り越えて、正直、温和、孝行、また領主への忠義など、封建時代の倫理規範がそのまま反映されて、本来の浄土真宗の教義からはかなり逸雑しているが、民衆の要求には受け、また真宗の弘通には大いに役立ったこと。  それが、現代では、教義体系の浸透し観念的な信仰となり、同時に、非論理的、非科学的な現象は切り捨てられて、たとえば三世因果や後生の解決よりも、「今を生きる」ことが中心課題となっている現状がある。  一方で、今日取り上げられた、東日本大震災での「お迎え」現象は、確かに生きる者大きな力、癒しにはなるろう。それを頭から否定するつも...

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現代に『往生伝』は有効化か(1)

 佛教大学ビハーラ研究会に出席する。 「現代に『往生伝』は有効化か」という研究発表。テーマが面白かった。  浄土教が盛んになると、中国で「往生伝」が作られるが、日本でも、平安時代以降、10世紀の『日本往生極楽記』を嚆矢に、いわゆる「六往生伝」が成立する。その後、中世以降はあまり注目されないが、江戸時代に入って全盛期を迎え、次々と往生伝が生み出されていく。明治期に入ってもしばらくは続くが、その数が激変。明治四十四年の「第二新明治往生伝』以降は、本格的な往生伝の編纂がなくなっている。  では、江戸後期の浄土宗系の「往生伝」はどんなものか。その人物像として、正直、温和、孝行、また忠義といった浄土宗の教えとは無関係で、むしろ時代的、社会的要求、倫理観が色濃く顕れてくるようになる。しかし、まだ往生行は専修念仏、臨終の奇瑞や死期の予知など、これまでの伝統的な往生伝の記述を継承している。また、例は少ない...

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第17回「真宗法座の集い」

 定員20名に19名が集い、世話人を含めると21名の皆さんが、車座に座った。ここでは、誰も尊重され、平等であることを確認されて、始まった。具体的なことは述べられない。この安心が担保されているのが、この集いのよさである。  それにしてなんとも不思議な集りだ。顔ぶれによって集いの雰囲気は変わる。たったひとりの言動でも、場が動く。そこが面白くもあるし、また怖くもある。  グループ分けひとつでも、なかなか決まらない。作業だけみれば、非効率で、邪魔臭いことである。関西弁なら、「しんきくさい」時間がすぎる。普段なら、そんなことはどうでもいい。さっさと決めて、もしくは誰かに決められても誰も文句はない。確かに、誰かに依存したり、流れにまかせているのが楽な時もある。しかしである。もし、そう選択をするにしても、よく我が胸で何が起こっているのかをよく点検して、つまり自分に向き合って決めていくこと。発言がなくても...

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